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若田大塚古墳 高崎市若田町

高崎八幡霊園で古墳巡り。最初に訪れたのは、若田大塚古墳。文献[1]の番号255[現状:○、墳形:円、直径29.5m、袖無型横穴式石室、碓氷郡八幡村9]

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群馬県指定史跡 若田原遺跡群

若田大塚古墳

確氷川と島川にはさまれた台地上には、多数の古墳が分布している。若田大塚古墳は、これらの中で最も大きな円墳の一つであり、直径は29.5m、高さは約7.5mを計測する。

墳丘は基壇を持つ二段築成で葺石が見られ、朝顔形埴輪を含む円筒埴輪列が巡っていた。

主体部は横穴式石室のように基壇上に構築されている。石室の石積は自然石の乱積で、床には径5〜8cmの玉石が厚さ15cm程度に敷きつめられていた。

明治15年地元より県へ発掘届が提出された。発掘品目録には「槍一、 銕片一、鏡一、蝋石一九、鏃片二三、鍔八、鞘片一、刀折小片、甲一、銕釣一」と記されている。これらのうち、鉄製の矛(図1参照)は現存長42.7cm、身幅4.4cmで、断面は菱形を呈する。また、盗掘坑に残されていた鉄槍は現存長で23.3cmあり、その一部が銅製金張りの精巧な作りとなっている。横矧板鋲留式短甲(図2参照)は前胴の高さ32.2cm、後胴の高さ43.8cmである。

古墳が築造された時期は、埴輪や副葬品の種類などから、群馬県に横穴式石室が多く造られるようになった六世紀初頭であると考えらる

所在地 高崎市若田町字大塚四二三番地」他(八幡霊園内)

指定  昭和四七年一二月一五日

高崎市教育 教育委員会

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霊園のあらまし

所在  高崎市若田町470番地
総面積 364,000平方メートル
海抜  155.0メートル
墓所の総数 10,509区画
都市計画の決定 昭和41年10月12日 建設省告示第3387号
開園  昭和45年 8月 1日 第1回 墓所貸付開始
設置者 高崎市

〔位置〕

高崎市から西へ約7km、古戦場として名高い若田原の高台にあり、高崎の全景を一望におさめることができ赤城、榛名、妙義の上毛三山をはじめ、はるか遠方には上信越境いにえんえんとつづく、美しい山なみを仰ぎみることができ、風景の妙は筆舌につくしきれない。

〔故事〕

若田町一帯のこの台地には、多くの遺跡があり、縄文時代には前期から中期にかけて多くの人々が生活を営んでいた。特に中期には大集落があったと考えられる。園内にある「若田縄文前期竪穴住居跡」「若田縄文時代敷石住居跡」等はこれらの中の一つであり、縄文前期末から後期初頭のものと考えられる(約5000年前)。その外、峰林古墳、稲荷塚古墳、旧八幡村第14号古墳等六世紀から七世紀頃築造と思われる大小数十の古墳(円墳)があり、古代から中世にわた り私たちの先祖が選んだ最も住みよい土地であり、近郷近在の文化の中心地としても栄えたことがうかがえます。また、戦国時代末期、関東管領上杉謙信甲斐国守護武田信玄と上州制圧をめざして激しく争った古戦場としても有名です。

文献

  1. 群馬県教育委員会 2018「群馬県古墳総覧2017(第2版)」

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