八幡台地の北端の剣崎長瀞西古墳。文献[1]の番号149[現状:◎、墳形:帆立貝式、全長約30m、竪穴系(石槨2)、碓氷郡八幡村24]








剣崎長瀞西古墳(けんざきながとろにしこふん)
墳形 円墳または帆立貝式古墳
墳丘規模 全長約35.5m
主丘部径約30m
高さ現状で約5m
周堀 周堀幅2.5〜3m
埴輪 円筒埴輪、家形埴輪
出土品 捩文鏡1・滑石製勾玉7・滑石製臼玉多数・滑石製鏡形模造品1・滑石製斧4・滑石製鎌3・滑石製刀子35
鉄製三角板革綴短甲1・鉄製鉾身及び石突各1・鉄鏃・ガラス製小玉等(以上主体部より出土)
須恵器(墳丘より出土)
築造年代 5世紀後半この古墳は八幡台地の北端に造られています。この台地には、国指定史跡観音塚古墳(6世紀後半)や平塚古墳(5世紀後半)などの前方後円墳や、群集墳と呼ばれる数多くの中小古墳が造られています。古墳の南にある、現在の西部小学校敷地内からも、7世紀代の横穴式石室を持つ円墳が発見されています。また、古墳の東側の剣崎長瀞西遺跡では、円墳・方墳・積石塚を含む5世紀代の群集墳と横穴式石室を持つ7世紀代の群集墳が計36基調査され、金製垂飾付耳飾・韓式系土器・初期馬具の他、埴輪・土師器・須恵器などが大量に出土しました。
墳丘および外部施設 墳丘は、周堀の底から葺石が葺かれており、墳丘側が高くなっているので、この部分を見かけの1段目とすることができ、2段築造を意識して設計された古墳であることがわかります。1段目と2段目の間の平坦面には、円筒埴輪が巡っていました。このテラス部分は、古墳の南側で広くなっている様子が確認されており、墳形が円墳ではなく、帆立貝式古墳になる可能性も考えられます。
埴輪 周堀内から多数の円筒埴輪が発見されました。また、南側テラス部分では、家形埴輪が1点すえられたままの状態で発見されていますが、他に形象埴輪は見つかっていません。
主体部 主体部は墳頂部と南側テラス部分の2か所に、竪穴系の埋葬施設が発見されています。墳頂部の主体部は、そのほとんどがこわされており、規模・形態共に不明です。テラス部分の主体部は円礫で1m×1.5mの方形区画を造り、その中心に長さ約0.9mの竪穴式小石槨を築いている様子が明らかになりました。この構造は剣崎長瀞西遺跡で発見された、渡来人の墓である積石塚と共通するものです。
副葬品 昭和7年、墳頂部を開墾作業中に多数の副葬品が発見され、帝室博物館(上野にある現在の東京国立博物館)に一括して納められました。遺物には、捩文鏡・滑石製勾玉・滑石製臼玉、滑石製鏡形模造品・滑石製斧・滑石製鎌・滑石製刀子・鉄製三角板革綴短甲・鉄製鉾身及び石突・他に鉄鉄等があります。また、平成10年度の調査では、墳丘のテラス部分から須恵器の𤭯(はそう)が見つかっています。
剣崎長瀞西古墳は、八幡台地上で剣崎天神山古墳(円墳 ※現在は削平されて見られません。)に次いで築造された古墳であり、その築造年代は5世紀前半と考えられています。
しかし、平成10年度に新たに発見された円筒埴輪がやや新しい型式であること、滑石製模造品がかなり省略化の進んだ型式であることなどを考慮すると、古墳築造の年代は5世紀後半と考えられます。

群馬県高崎市内の遺跡から出土した韓式系軟質土器は、2023年に宮代町郷土資料館で開催された特別展「古代のみやしろ-古墳時代の宮代町-」で鑑賞した。
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