塚の山古墳を再訪した。文献[1]の「円墳、径6〜7m」




文献
- 埼玉県教育委員会 1994「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」



大塚延命地蔵尊の由来
当延命地蔵尊は正德五年(1715)九月、三十四人の施主により大塚三〇六九番地の角地、通称大塚の辻に造立された露仏であった。安政六年(1859)雨屋根が施され、更に慶応二年(1866)屋根替、明治三十年(1897)には、堂宇建替と地蔵尊の一部が再建された。
発願人綱島助次郎、世話人大野伊三郎、尾崎市郎三、綱島元一郎、他四十五人と台座に刻記されている。大正九年( 1920)と昭和三十年(1955)にも堂宇を改修し安置してきたのであったが、昭和四十二年九月八日遷座の運びとなった。当時人口急増により志木市立第二小学校を館耕地に建設することとなり、堂宇の牧地が通学路の一部となるための移築であった。思えば、二百五十余年に亘り郷 土の民の念仏供養と二世安楽の信仰の対象としてきた場所であったが、移動の止むなしと決議し、現在の大塚三〇七八番地に新しく堂宇を建設したのであった。平成十八年(2006)五月、またしても老朽化が進み、世話人相集い協議の結果改築することとした。大塚住人の浄財寄付によっての改築を期に、かかる経緯を記した碑を建立する。
平成十八年五月二十日


埼玉県内を通過する鎌倉街道には、武蔵府中(東京都府中市)方面から小手指(所沢市)・菅谷(比企郡嵐山町)を北上し、上野国(群馬県)へ入る上道(かみつみち)と、川口(川口市)から岩付(岩槻市)・栗橋(栗橋町)を経て、下野国(栃木県)へ抜ける道であった中道(なかつみち)という二本の幹線道路がありました。
これらの道は、本来律令制的行政区分である東山道に属する上野国や下野国などの国々の国府(国の政庁の所在地)と東海道に属する相模(神奈川県)・武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県の一部)などの国々の国府とを結ぶ道として発達してきた道であったと思われます。その後、鎌倉幕府成立等により鎌倉の重要性が高まってからは、それらの道が鎌倉と諸国とを結ぶ道路として整備されてきたものと考えられています。
市内を通る鎌倉街道は、上道と中道を結ぶバイパスのようなもので、上野国太田から利根川を越えて行田―鴻巣―大宮―与野をすぎ羽根倉の渡しを経て宗岡に入り、大和田(新座市)―下宿(清瀬市)—本郷(所沢市)へと続き上道に合流したものと思われます。
枝垂れ梅?


志木市は、1955年(昭和30年)に北足立郡志木町と宗岡村が合併して足立町となり、1970年(昭和45年)10月26日に志木町と改称、即日市制し、志木市となった。志木市を散策すると足立町の名残が見つかる。



ちなみに東京都足立区は、1878年(明治11年)に郡区町村編制法により、それまでの足立郡の東京府部分に南足立郡が成立、1932年(昭和7年)10月1日に東京市に編入され足立区となる。かたや北足立郡は、1879年(明治12年)に郡区町村編制法の埼玉県での施行により北足立郡が発足。1896年(明治29年)に北足立郡と新座郡が北足立郡となり、旧新座郡志木町は北足立郡志木町となる。わかりづらいが、東京都足立区の地名は武蔵国足立郡に由来するが、志木市の前身の足立町は、元々は新座郡で、律令制の武蔵国足立郡には含まれていない。足立郡の郡衙があったと推定される大久保領家遺跡や氷川神社東遺跡が所在する旧浦和市・大宮市が、埼玉郡に由来する「さいたま市」になっているので、ややこしい。さいたま市は2005年に岩槻市(旧南埼玉郡岩槻町)を編入することで、正当性を確保した。