山城貝塚


城山貝塚
この貝塚は、柳瀬川低地を臨む台地の突端に位置し、標高約十メートル、柳瀬川低地との比高差は約四メートルあります。周辺からは、縄文時代前期(約五千年前)の諸磯(もろいそ)式期の住居跡が発見されており、この貝塚も、同時代のものと推定されます。
縄文時代前期頃は、気候が大変温暖な時代で現在に比べ平均気温が二度程高く、これにより極池の水がとけ海水面が平均三メートル程上昇していました。そのため海は内陸深くに浸入してお り、今よりずっと近くにせまっていたようです。
貝塚は、縄文人たちが貝殼等を捨てたいわばゴ三捨て場のようなものですが、当時の食文化等を知ることができる大変貴重な資料でもあります。
城山貝塚から採集された自然遺物は今のところヤマトシジミ・マガキ・ハマブリ等の合わせて十一種の貝類が確認されています。
なお、「城山」とは、この辺一帯の字名です。


柏の城跡

史跡 柏の城跡
この辺一帯を遺跡とする柏の城は、木曽義仲の子孫で武蔵屈指の豪族大石氏が室町中期に造った居館である。そして京都聖護院の門跡道興准后が文明十八年(1486)から翌年にかけて関東各地を巡歴した際の紀行歌文集『回国雑記』に見える「大石信濃守といへる武士の館」とされている。ここで言う大石信濃守とは大石顕重(あきしげ)のことで、本城は現八王子市の高月城だった。
顕重以後の城主は定かではないが、大永年中(1521、1525)に修築が行なわれ、本丸(運動場のほぼ中央)、西の丸(長勝院境域)、二の丸(わき道に沿った校地の一角)、三の丸(前の市道を背にする一帯の宅地)を備えるに至ったと伝えられる。
その後、大石氏は北条氏康(うじやす)に服属したが、天正のころは、大石越後守直久(なおひさ)が城主だった。直久は顕重 の曾孫大石定仲(さだなか)の長男で、天正九年(1581)から北条氏の指令に基づき、駿河国獅子浜城の城代となっていた。柏の城が豊臣勢に攻められて落城したのは、武蔵国のほかの諸城と同じ時期の天正十八年(1590)。徳川家康が江戸へ入府すると、家臣福山月斎(げっさい)が新しい地頭として、この城地に居住した。

舘氷川神社




