新橋駅西口広場(SL広場)に設置された高輪築堤モニュメントを見学した。









時代とともに姿を消した高輪築堤を、鉄道はじまりの地「新橋」へ
平成31(2019)年4月、品川駅改良工事の際に高輪で石垣の一部が発見されました。
それは、すでに取り壊されたと考えられていた築堤でした。
築堤は日本初の鉄道を実現させるため海の上に作られた線路です。
当時、一度埋め立てた土砂が波に流されて築堤が崩壊するなど工事は難航しましたが、明治5(1872)年10月14日に新橋から開港場であった横浜を結ぶ、約29kmの鉄道が開業しました。
写真: 3街区第7橋梁橋台部「概説 高輪築堤」港区教育委員会所藏

高輪築堤とは
高輪築堤は、明治5(1872)年に我が国初の鉄道が開業した際に、海上に線路を敷設するために築かれた鉄道構造物です。明治政府は明治2(1869)年に、首都東京と開港場であった横浜を結ぶ約29kmの鉄道建設を決定しました。しかし、鉄道建設に反対する兵部省が高輪周辺の土地の測量を拒んだため、鉄道建設の責任者であった佐賀藩出身の大隈重信らの判断で、本芝から高輪海岸を経て品川停車場に至るまでの約2.7kmの区間は海上に築堤を建造し、その築堤の上に列車を走らせることとしました。
工事はイギリス人技師エドモンド・モレルの指導のもとで民部省鉄道掛のちに工部省鉄道寮が担当し、石垣の石材には台場や高輪海岸の石垣等が使用されています。一度埋め立てた土砂が波に流されて築堤が崩壊するなど難工事となり、完成したのは正式開業直前のことでした。高輪築堤は、我が国の在来技術と西洋技術の折衷をみることのできる貴重な 鉄道構造物といえます。
出土の経緯と調査 (2021年2月27日時点)
高輪築堤は、平成31(2019)年4月、品川駅改良工事の際に石垣の一部が発見されました。この発見は、周辺の埋め立てに際してすでに取り壊されていると考えられていた高輪築堤の残存を確認するきっかけとなりました。築堤が開発計画エリア内に残存している可能性があると考え、令和元(2019)年11月の山手線・ 京浜東北線の線路切換工事完了以降、築堤の残存状況を確認する試掘調査を実施しました。その結果、旧山手線・旧京浜東北線の線路下より高輪築堤が見つかりました。石垣上部の石は取り除かれているものの、開業当時の線路に敷かれていたバラストが確認されるなど、比較的良好な状態で残存していることが確認されました。
第7橋梁橋台部分
築堤の一部を切って設けられた橋梁の橋台部分です。横長の石を同じ列に長手と小口を並べるようブラフ積みが用いられています。石の面を観察すると、開業時手前の表面は斜め筋状の叩きが丁寧に施されているすだれ仕上げに対し、山側奥は荒い打ち欠きが残るのみです。
これらの違いから、山側は3線化に伴い拡幅された際のものと考えられ、 開業時の山側の石垣は、拡張した石垣に隠れている可能性があります。
「概説 高輪築堤」 編集・発行:港区教育委員会、港区立郷土歴史館

築堤の大きさ
原物の高輪築堤は3.8mの高さがありました。 このモニュメントは赤で示した上部約1mの石積を再現しています。
「概説 高輪築堤」港区教育委員会所蔵



明治42年烏森駅開業時「柱」の由来と「床の軸線」
明治5年(1872年)、新橋・横浜間に日本で最初の鉄道が開業いたしました。
当時の新橋駅は、現在の東新橋付近に設置され、「新橋停車場」として親しまれましたが、大正3年(1914年)、東京駅開業により42年間の幕を閉じました。その後「汐留駅」と改称し、昭和61年(1986年)にその役割を終えました。
現在の駅は明治42年(1909年)12月、わが国初の煉瓦アーチ橋の高架駅(烏森駅)として誕生、同時に山手線電化工事が完成し、烏森〜品川〜新宿〜池袋〜田端〜上野間で電車運転を開始いたしました。そして、大正3年(1914年)12月、東京駅開業に合わせて「新橋駅」と改称し現在に至っています。
平成14年(2002年)、3・4番線ホームエスカレーター新設に伴う階段解体工事のため、開業当初から93年間ホーム階段を支えてきた「明治41年製造の柱」は、取り外して保存してきました。
「柱」から海側に延びる「床の軸線」は、新橋停車場があった方向を示しており、令和4年(2022年)10月14日、鉄道開業150年を記念して新橋停車場から現在の新橋駅に“鉄道発祥の地としての歴史をつなぐシンボルライン”を床に刻み、この「記念柱」とともに設置しました。
令和4年(2022年)10月 新橋駅長