草加市立歴史民俗資料館で開催された秋季企画展「古墳時代の草加地域」を鑑賞した。残念なことに企画展は撮禁だった。なお、常設展示は撮影OK。



登録有形文化財 草加市立歴史民俗資料館(旧草加小学校西校舎)
所在地:草加市住吉1丁目11-1 29号
かつての草加市は、一部の台地を除けば一面に豊かな水田が広がる稲作地帯でした。
しかし、昭和三十年代からの急激な都市化現象は、そこに住む人々の暮らしまで一変させ、営々と築き受け継がれてきた貴重な歴史、民俗等の文化遺産を消失させつつあります。
草加市立歴史民俗資料館は、この失われつつある郷土の文化遺産を収集、保管、展示するため、昭和五十八年十一月一日に開館しました。
この建物は、草加小学校西校舎を改築したもので、コンクリート造りの校舎としては埼玉県で一番古いものです。屋根の一部を三角形に立ち上げる意匠などが特徴で、平成二十年十月二十三日、国の登録文化財となりました。
館内には、農具、神楽面などの民俗資料、古文書、板碑などの歴史資料、土器などの考古資料が保管・展示されています。
ここに集められた文化遺産は、いずれも私たちの祖先が長い歴史の中でつくり、はぐくみ、伝え残してくれたものです。これらを大切に保存し、永く後世の人々に伝えることは、今に生きる私たちの責務ではないでしょうか。
近年、急激に進められている地域開発や生活の変化の中で、市民の財産である自然や文化財を愛護する精神を培っていきたいものです。


- 秋季企画展 「古墳時代の草加地域」 - 草加市役所
- 「れきみんだより」 - 草加市役所
- そうかふるさと歩道ガイドマップ - 草加市役所
- 東地総田遺跡 (草加市) | 公益財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団
- 越谷市指定 記念物・史跡 見田方遺跡 越谷市公式ホームページ
草加市立歴史博物館の企画展が今日までだったので朝イチで行ったら、企画展は撮禁で、それは残念だったのだけど、それ以外は撮影OKで、廊下に、草加に工場のあった大阪窯業と、赤羽煉瓦の刻印煉瓦があった。さらに2011年の草加市房州石調査のパネル4枚あった。いわゆる本物の房州石。 https://t.co/mq4xM8G4Bs pic.twitter.com/Hi8qPznX4z
— ぶじん (@kufunmeguri9) 2024年12月15日
企画展では、草加市の蜻蛉遺跡の土玉3点と勾玉1点、切子玉1点があった。これが埼玉県埋蔵文化財事業団からの借り物だから撮禁だったのかな?https://t.co/XsbKdkqxtX
— ぶじん (@kufunmeguri9) 2024年12月15日
南原遺跡Ⅻの埴輪片(朝顔型埴輪、円筒埴輪)、形象埴輪片(鶏)が戸田市教育委員会からの借り物だから撮禁だったの? 戸田市立郷土博物館の企画展「ここまで分かった!戸田市の埋蔵文化財最新情報展」は撮影OKだったけど。https://t.co/XUtua6SMnD pic.twitter.com/DD3soAqOtr
— ぶじん (@kufunmeguri9) 2024年12月15日
越谷市の見田方遺跡の石製模造品と𤭯(はそう)が越谷市教育委員会からの借り物だから撮禁だったの? 普段は旧東方村中村家住宅の展示室で展示されているようだ。https://t.co/QmtiWCjXoi
— ぶじん (@kufunmeguri9) 2024年12月15日
草加市教育委員会所蔵の東地総田遺跡や毛長沼外瓦A遺跡の遺物は、葛飾区郷土と天文の博物館の企画展『東京低地に人が住み始めた頃』では撮影OKだった。パネルの説明も今回の草加市の企画展より、葛飾区の企画展の方がわかりやすかった。辛口でごめんなさい。https://t.co/KADii4MxNK pic.twitter.com/EQ89YBOIFt
— ぶじん (@kufunmeguri9) 2024年12月15日
松尾芭蕉文学碑
ことし 元禄二とせにや 奥羽長途の行脚 只かりそめに思ひたちて 呉天に白髪の恨みを重ぬといへ共 耳にふれていまだめに見ぬさかひ 若生て帰らばと 定めなき頼の末をかけ 其日 漸早加と云宿にたどり着にけり 瘦骨の肩にかかれる物先くるしむ 只身すがらにと出立侍るを 帋子一衣は夜の防ぎ ゆかた 雨具 墨 筆のたぐひ あるはさりがたき餞などしたるは さすがに打捨がたくて 路次の煩となれるこそ わりなけれ
西村本「おくのほそ道」より

草加松原の今昔
草加松原は、日光道中綾瀬川沿い約1.5kmの松並木です。江戸時代より「草加松原」「千本松原」と呼ばれ、うっそうとした松並木が緑のトンネルを形成し、日光の杉並木と肩を並べる名所になっていました。
松の植樹時期は定かではありません。一説では、天和年間(1681〜1684)に関東郡代伊奈半左衛門が綾瀬川を開削したときにあわせて日光道中を改修した際に植えたといわれています。しかし、1751 年(寛延4)成立の『増補行程記』(盛岡藩士清水秋全筆)には松並木は描かれていません。記録によると、1792年(寛政4)に1230本の苗木を植えたということが記されています。1806年(文化3)完成の『日光道中分間延絵図』には街道の東西に数多くの松が描かれています。
1870年(明治2)の調査では485本、1879年(明治10)には補植されて806本あったといわれます。1928年(昭和3)発行の埼玉県の調査報告書によると、「距離延長約14町(約1.5km)、樹数778本、道路の東側390本、西側388本、大きさ通常目通周囲約4.5尺、高さ7〜8間、最大なるもの目通周囲約8尺、高さ12間」とあります。
しかし、昭和40年代には、自動車通行量の増加による排気ガスの影響で、成木は60数本にまで減少しました。1971年(昭和46)、 草加市は「松の枯死の原因究明と対策」を検討し、松原再生に着手 しました。松並木保存会による保護・補植、県道足立・越谷線の西側移設などにより、現在約600本まで回復しています。1986年(昭和61)、草加松原は「日本の道100選」に選ばれています。
街道と松並木
徳川家康は、幕府開府に先立って五街道をはじめとする全国の街道の整備を命じています。日本橋を起点とした街道沿いには、箱根や日光のように、杉や松が多く植えられ並木として壮大な景観を今に伝えている場所があります。幕府が街道に並木を設けたのは、常緑の並木が夏は強い日差しを遮り、冬は防風にと参勤交代などで道ゆく旅人たちを守ること、街道の風致を求めたことにあったといわれています。


