東京都の未訪問の古墳の1つの堤方権現台古墳を訪れた。
池上永寿院万両塚 芳心院墓所



芳心院墓所
万両塚に埋葬されている「芳心院殿妙英日春大姉」は、 徳川家康と側室お万の方の孫にあたり、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室です。
宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得」(生前に墓をつくるなどの善行を積めば、七の功徳全てを得ることができる)のために生前に建てた自分のお墓であったことが記されています。
宝塔内部からは、法華経巻子本八巻と火葬骨の収められた青銅製の骨蔵器が発見されました。自身の法華経信仰を三百年後の私たちに伝えてくれる貴重なお墓です。
万両塚をめぐる系図
永寿院と芳心院
祖母養珠院の仏縁で、永寿院に帰依していた芳心院は、息子永寿丸が多病であったため、本門寺の祖師に祈念し、もしつつがなく成長した時には出家させると願をかけた。この願はかなえられ永寿丸は立派に成長したが、その出家させるのを惜しみ、親成院日連を猶予として、永寿丸の身代わりとなして、永寿院の住職とした。それ以前は集乗院という寺号であったが、芳心院より永寿院の寺号を賜った。
弥生時代集落の跡


弥生時代集落の跡
万両塚調査の過程で、約二千年前の弥生時代の住居跡が十棟以上発見されました。
それらは時間的なズレがあり、かなり長い期間この地に集落が存在していたことがわかります。
その中の一棟、江戸時代に万両塚を築くときに半分壊れた住居跡を、歴史が重層する貴重な遺跡として 現位置に再生保存をしました。
また、住居跡からは完全な形に近い土器が数多く発掘されました。
発掘された土器は弥生時代後期のもので、櫛描文や縄文が描かれています。土器の表面に焼け焦げたあとがあるものもあり、火災にあったためだと考えられます。
池上の古代の記憶が、足元からよみがえりました。












堤方権現台古墳(復元古墳墳丘)


堤方権現台古墳
6世紀前半に築かれた古墳。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』にこの地にあった熊野神社後方の塚から「古刀古器」が出土したという記述があり、古墳であることは推定されていました。
万両塚周辺調査の際、古墳の周濠・埴輪・須恵器・土器が出土。平成19年には本格的発掘を行ない、馬具一式・木製の鞘に収められた鉄製直刀・鉄鏃を取り付けた矢が数十本等の副葬品が出土。さらに、刀の脇の土の部分に白いしみのようなものがあり、骨盤から下の下半身の骨格であることが確認されました。全体で4mほどの木棺に副葬品とともに納められていたことが想像されます。
なお、昭和7年に住宅が建てるために整地した際に、古墳の主体部ごと上半身が削りとられたのではないかと考えられています。

池上永寿院 万両塚
約1500年前 堤方権現台古墳
この地の豪族が、古墳を築きました。馬具・埴輪・ 須恵器などの副葬品が出土しました。
約2000年前 復元弥生住居跡
池上の大地には大集落がありました。住居跡や土器が多数発掘されました。
万両塚遺跡霊園
今を生きる人たちが先人とともに仏さまとともに久遠の時を過ごすためのお墓をつくりました。
約300年前 芳心院墓所

万両塚遺跡霊園
万両塚型個人墓
万両塚宝塔の銘文には、「逆修七分全得」という記述があります。 「逆修」とは、生前に自らの死後の追善のために仏事を営むこと、「逆修七分全得」とは、 死後の追善供養をしても七分の一の利益にしかならないが、生前に墓をつくるなどの善行をつめば、七の功徳全てを得ることができるという教えです。生前に万両塚と同型の搭を建て、法華経の教えと共に久遠の時を生き続けようというお墓です。
古墳遺跡内合祀墓
東京にはたくさんの古墳がありますが、開発のため壊されたものや、いまだに確認されていないものも多いそうです。巨大な墓も千年以上の時を経ると忘れられてしまいます。今回発掘調査・復元された「堤方権現台古墳」という遺跡の一角に納骨室を設け、1500年前の先人とともに、お題目の光に包まれて共に生き続けるようにとつくられた墓です。


永寿院 縁起
寛永19年(1642)以前の開創。備中庭瀬藩主 戸川達安が本門寺十六世日遠聖人に帰依して自らの下屋敷五千坪を聖人の隠棲地として寄進し、日遠聖人の弟子 日東聖人(本門寺十七世)により堂宇が完成した。当初は日東聖人の院号にちなみ蓮乗院とよばれた。その後、お万の方の孫芳心院(紀州家 初代徳川頼宣の娘、鳥取藩主池田光仲の妻)の帰依を受け永寿院と改称。宝永5年(1708)に没した芳心院の墓所は「万両塚」とよばれている。
