毛呂山(もろやま)町歴史民俗資料館で企画展「病と毛呂山の人々」を鑑賞。常設展示で毛呂山町の古墳群の情報を収集。



毛呂山町歴史民俗資料館の敷地に移設された西戸2号墳(行任塚、毛呂山町西戸、円墳、径10m)



西戸古塚記 武山平子宣撰
古塚靈也者何日人物寶器廢焉人不可猥哀也塚狐入詩是有以乎入間郡川角村西戸淺見儀一郎氏有古塚云行任塚無知其故今茲癸巳秋霖雨屢濕塚面崩陥石出有物更穿獲甃槨内分為両濶各丈許人骨刀鏃及小金環發見奇古可琢而髑髏數座髁脛随之槨裏猶正従班列余謂是殉葬以一宅穸也此地山水形勝上古座猶氏所宅而塚墓在矣行任其人乎夫殉葬仁之古巳禁之然東俗化晚殉禁不行亦久矣抑用人送死王公威福則知遺靈貴也淺見氏篤志懷古之情切建碑追遠求余記余同感明治癸巳孟冬為之記 根岸榮助書

西戸古塚記
この石碑は西戸二号墳上に建てられていたもので、明治26年(1893一)にこの古墳を発掘した時の様子を記したものです。縦書10行、漢文により刻まれ、その概要は次のとおりです。
入間郡川角村西戸に、行任塚(ぎょうにんづか)という古い塚がある。今年の秋、長雨により表土が崩れて石が出てきたので下を掘ってみると、槨(くるわ、横穴式石室か)がすがたをあらわした。槨の内部は分かれて二つになっていて、その広さはどちらも一丈(畳)ばかりであった。中からは人骨、刀、鏃、金環が発見され、人骨は数体分あり、主従関係にあるようで、殉死者がいたようだ。この古墳は、行任その人の古墳であろうか。生きた人がいっしょに葬られたのであるから、この墓の被葬者は貴人と考えられる。
この土地の所有者は供養のために石碑を建てることを考えられ、私(この碑文の作者)も同感であるから、明治癸巳の初冬(明治26年)、古塚の由来を書き記したのである。
なお、地元には、道祖士(さいど)の祖である平維新(行任)という人物が初めてこの地に入り、行任塚はこの人の墓であり、近くの丸山城(不明)は平維新が築いた城であるという伝説があります。
殉死者や平維新伝説といった内容は史実とは考えられないでしょうが、これらの碑文や伝説から、明治中頃のひとびとがどのような思いで古墳をみつめていたのかが理解され、たいへん貴重な資料となっています。





西戸2号墳の跡地(食品工場)

文献