卒業生も含めて、ずいぶんたくさんの参加があった。感謝したい。
まだ本を読まれていない方々には、内容的にわかりにくい話だったかもしれないが、出来はともかく、奇しくも女性の首相が誕生したその日に、タイムリーにも拙著『アフター・リアリズム』に絡めた「表象=代行」の(危機の)話をするという、ある意味で「歴史的」なイベントとなったのではないか。途中で司会の大澤聡さんに指摘され唖然としたが、私自身も石原吉郎論で批評家としてデビューして、何と25年(掲載誌は「新潮」2000年11月号)たってしまったという、恐ろしい「歴史」(四半世紀!)もおまけとして付け加わった。
イベントでのコメントを補足する形で簡単な感想としたい。
中村拓哉さんの新刊『日本語ラップ』の副題は、「繰り返し首を縦に振ること」という。これを中村さんは、「隠喩」の問題と結びつける。ただ、ここでいう「隠喩」は、単に詩学の問題というより(を含めてと言った方がよいか)、リクールの言うような「われわれの生に不可欠なもの」という位相で捉えられている。本書では、ミメーシス―ミュトスが、あくまで「行動」のレベルで捉えられるように。
したがって、隠喩は「首を縦に振ること」、つまり「頷く」という身振りを伴うのではないか。というのも、隠喩はひとつの理解の様式――ある事柄を、別の事柄を通して――だからであり、リクールが「再認のよろこび」と呼ぶもの、理解することの喜びにおいて、ひとは「なるほど、なるほど」「うんうん、たしかにそうだ」と「頷く」ことになるだろうからだ。(p287)
「首を縦に振る」といっても、だからいわゆる「イエスマン」とは何の関係もない。
中学卒業も更生院/数年後には準構成員」(鬼「小名浜」)というリリックを聴いて、はじめは「こうせいいん?どういうことだ」と考える。しかしそれが、中学生の時点ですでに更生のために少年院あるいはそれに準じる施設に入れられた少年が、数年後にはヤクザの組の準構成員になっていたという、強烈なリアリティを歌っていると気付いたとき、この巧みな表現とそのフレッシュな理解に喜びを覚える。「深い、間違いない」と頷く。ラップのリリックはそのようにして聴かれるものである。隠喩的理解がもたらす「頷き」において、意味はリズム化し、身体化されるのである。(p288)
すなわち、「たしかに、隠喩ははじめ、聞き手に欺かれたような精神状態に陥れる。何を言っているのだ、と混乱する。しかし、彼は徐々にあるいは唐突に、その意味を理解する」のである。
この生の「隠喩」が重要なのは、「ポストフォーディズムによって準安定した他者との共同性の破壊が進んだ現代においてこそ、認知におけるメタ歴史的なものであるところの隠喩的理解の問題が浮上する」からだ。イベントでも少ししゃべったが、ネオリベやポストフォーディズムにおいて、共同体に寄生し「市民社会」を擬制してきた資本が、現在、もう利潤が得られない、そこからは十分絞り取ったとばかりに、共同体から撤退しつつある。まさに、中村さんの言う「準安定した他者との共同性の破壊が進んだ現代」である。「市民社会の衰退」、「社会は存在しない」と言ってもよい。現在の「当事者」的な「私」小説の隆盛も、この不可避的な帰結だろう。資本が撤退し市民社会が衰退することで、裸の「この私」が、しかし人的資本の「資本家」と見なされ、「お前の資本は何なのか?何が資本主義に提供できるのか?」とむき出しの生をさらされている。したがって、不断に心身の「ケア」も必要となろう。現代の「私」小説は、「市民社会」が爛熟していた頃の、小林秀雄の「私小説論」の「私」とは異質なのである。
毀損された共同性における、従来の「表象=代行」とは異なった「私」と「私」との関係のあり方を、今回中村さんは「隠喩=首を縦に振ること」という、ラップやヒップホップの「生」に見出そうとしたのだ。「日本語ラップ」の具体的で精緻な分析はもちろん、それを超えて、もはや手をとりあうことが難しくなった一人称同士の「私」と「私」の空間というか「くうかく」(山本陽子)において、「俺はこうだ」(一人称)と、「で、てめえはどうなんだ」(二人称)とが「隠喩=首を振ること」で共振し得るような「場」を模索すること――。かつて、山本陽子の詩の「くうかく」は、換喩的な関係性ではないかと論じたことがあるが(「隣接する批評」『収容所文学論』所収)、「60年」→「68年」が、「隠喩」→「換喩」への移行だったとするなら、「68年」→ネオリベ、ポストフォーディズムは、その移行をふまえて、さらにまた高次の「隠喩」へということになろうか。
まずは先行する抵抗しての六八年革命、それに対する「反転された革命」としてのネオリベラリズム/ポストフォーディズム、そのさらに逆――「逆さまの資本主義」として――のヒップホップ。私たちはこのような入り組んだ鏡像関係において、ヒップホップの現代性を規定する。(p139)
思想、哲学、文学、言語学などの知見が動員され、「68年」後の新しい「他者」論としても示唆に富む。何より、読者の「わたし」にも、その「で、てめえはどうなんだ」と強く問いかけ、行動をうながしてくる、冷静で熱い一冊である。もう手をつなげないなら、首を振るのはどうだ、と。
最先端の中村さんの『日本語ラップ』と、アナクロニズムの極みのような拙著とが、いったいどのように「共振」するのか、当初は想像もつかなかったが、大澤さんの周到な読解に裏付けられた驚嘆すべき巧みなMCによって、点と点がみるみる線になっていく。会場のなかには、その手さばきに知的快楽を覚えた方もいるのではないだろうか。少なくとも私は、中村さんの本も、自分の本も、やはり「68年」後を思考しようとしている本なのだなということを、改めて痛感させられた。壇上の私は、「うん、うん、確かにそうだ」と、何度も首を縦に振っていたはずである(当日寝違えていたにもかかわらず)。
われわれは、それぞれのテクストを読んできたうえで(これが重要)、当日、社会の「くうかく」で、お互いの「一人称」と「一人称」とを、少しは「共振」させることができたのではないかと思っている。
(中島一夫)