『復興期の精神』の花田清輝は、ルターは「天職=召命(ベルーフ)」に満足してしまったために、まだ「不徹底」だったという。その後カルヴァンが、真に「キリスト教的な意味において禁欲的であろうとした」と。
ルターもカルヴァンも、カトリックの「神=王殺し」を敢行し、「神=王」を中心とする表象世界の崩壊を招いた。あるいは、神のために人間があったのを、人間の(労働の)ために神があるかのように、神と人間の関係性を反転させた。「神=王」の代わりに、「人間=奴=従」による「労働」を合理性とする新たな価値体系=表象世界をもたらしたのである。「労働価値説」的な表象世界といってよい。そこでは「職業は神による召命(ベルーフ)を意味し、神の前にあっては、すべての職業は、まったく同一の価値をもつのである」(『復興期の精神』「素朴と純粋――カルヴィン」の章)。まだ「素朴」だったルターに比べ、カルヴァンが「純粋」化した(できた)のは、その新たな「労働価値説」的な表象世界がより広汎に深化したからだろう。表象の根拠性=確かさがより深化=強化されたことで、より「禁欲」すればより「営利」がもたらされ、それによってより「救い」の保証が増したのである。
ここにおいて、ウェーバーの所謂カルヴィニズムが、キリスト教的な解放を徹底させるべく、はじめて登場する。カルヴィンはルターから新しい職分精神をうけつぎ、しかもどこまでもキリスト教的な意味において、禁欲的であろうとしたのだ。それでは営利というような自然的本能もまた、克服されるべきであろうか。否、営利はひとつの世俗的職分であり、利を営むことはなんらそれ自身恥ずべきことではなく、むしろ、神の召命として、営利のために、積極的・合理的に活動することこそ、カルヴィニストに課せられた義務であった。生活の計画的合理化をもたらす組織的態度――禁欲は、財の獲得のばあいにも、消費のばあいにも、強要された。人びとは、神の栄光のために、傍目もふらずに計画的に営利に没頭し、自らの享楽のためには、断じて無計画的な奢侈に耽ってはならないのだ。このような禁欲的傾向は、資本の形成と、蓄積された資本のますます生産的な投資に、大いに拍車をかけたでもあろう。自然の要求に忠実であったマキャヴェリの態度を素朴だとすれば、徹頭徹尾、反自然的であろうとつとめたカルヴィンの態度は、まさに純粋と称すべきであった。(『復興期の精神』「素朴と純粋――カルヴィン」の章)。
先(その4)のジジェクの引用に戻れば、「資本主義から社会主義への移行の歴史的必然性」に基づいたスターリン主義(生産力理論)の「二○年代後期から三〇年代初頭にかけての人的資源の未曾有の動員」は、カルヴィニズム=資本主義の精神の「純粋人」に、さらに輪を掛けた「純粋人」らの所産だった。それこそ一貫してジジェクが言い続けてきたように、スターリン主義者ほど「禁欲」的で「純粋」な者たちもいない。「歴史的必然」を「予定説」として受容し盲従してしまえば、まさに「資本主義の精神」から「社会主義の精神」への「移行」を、自然で「素朴」なレベルから、反自然的なまでに「純粋」化させていくことに終わる。
話を戻せば、1917年のレーニンの頃から、革命を保証する「大他者」など存在しない(四月テーゼ「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」)。たとえ「歴史」が「必然」であっても、革命が現実化するには「跳ぶ」瞬間が必要なのである。だが、中野と渡辺の往復書簡における「対立」は、そして両者の「対立」を止揚した大江の転向=回心論は、その手前の枠内にとどまっている。
手前には「跳ぶ」ことに対する「人間」主義的な「転向」者の恐怖があり、跳んだ先には革命を遂行する「反人間」的な恐怖がある。ジジェクは、フランス革命におけるロベスピエールを参照しつつ、「「ロベスピエール」という名が指し示す出来事を反復するもっとも簡潔な定式は、(ロベスピエールの)人間主義的(ヒューマニスト)な恐怖から反人間主義的(あるいはむしろ)非人間的(インヒューマン)恐怖への移行である」(『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』)と言った。
大江が「転向」と「回心」を接続したことで喪失されたのは、この後者の「反人間主義的」「非人間的」な「恐怖」であった。だが、これは何も大江だけの問題ではない。二〇世紀末に起きた普遍的な出来事であり「政治的後退」であった。
『世紀』でバデュウは次のように論じている。すなわち、二○世紀末に起きた「人間主義と恐怖」から「人間主義か恐怖」への移行は政治的後退の徴候(シーニュ)だった、と。一九四六年、メルロ=ポンティは『ヒューマニズムとテロル』を書き、ソヴィエト共産主義をある種パスカルな賭に関わるものとして擁護したが、この賭は、のちにバーナード・ウィリアムズが「道徳的運(モラル・ラック)」なる観念として展開したものを先取りしている。現在の恐怖(テロル)は、この恐怖(テロル)によってもたらされた社会が真に人間的な社会であるという条件を充たせば、遡及〔事後〕的に正当とされる、というわけである。今日、こうした恐怖(テロル)と人間主義の結合は論外である。人間主義か、それとも恐怖か、というように、支配的なリベラル派の視点では、「と」が「か」に置き換えられる。(『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』)
冷戦終焉=ソ連崩壊によって、「恐怖(テロル)と人間主義の結合は論外」となった。「人間主義」と「恐怖(テロル)」との結合を可能ならしめていたのは、「恐怖(テロル)によってもたらされた社会が真に人間的な社会であるという条件」を担保する共産主義圏の存在だったからだ。以降、「恐怖(テロル)」は単なる「恐怖」となり、「反人間」的な「暴力」でしかなくなった。挙句、この恐怖=暴力を思考すること自体が困難になった(いわゆる「内ゲバ」は単に陰惨で理解不能で思考することすら忌避される行為となった)。ゆえにジジェクは、それを「思考し抜くという遥かに困難な営為」は、「われわれにとっては唯一つの希望である」とまで言ったのである。
だが、「人間主義」と「恐怖(テロル)」(反人間)が切断された後に起こったのは、「人間」自体に「反人間(非人間)」が浸食してくることではなかったか。冷戦が終焉した後、先駆的にフーコーが言っていたように、いよいよ「人間」が終焉したのだ。現在、「隣人」が「人間」的だと考えている者など誰もいまい。「隣人」が「恐怖(テロル)」化したのだ。
レヴィナスが、本来的な意味で弁証法的な逆説において、その名高い〈他なること〔他者性〕〉が原因で捉え損なっているのは、あらゆる人間を根底で支える何らかの〈同じであること〉などではなく、根源的に「非人間的な」〈他なること〉そのものである。それは、非人間性へと切り縮められた一人の人間の〈他なること〉、回教徒(ムスリム)という恐るべき形象に具体化され例示される〈他なること〉、強制収容所の「生ける屍」である。(『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』)
「労働価値説」的な「平等=同じであること」が崩壊し、市民社会が縮減した世界では、「隣人=他者」は「非対称」というレベルではすまない。「隣人=他者」は、もはやはっきりと「反(非)人間」的な存在となった。そして、「人間」と切断された「恐怖=反(非)人間」は、いまや「人間」の枠内へと浸食し、だが同時に、「回教徒(ムスリム)=生ける屍」(アガンベン)として馴致され統治されているのである。その時、「恐怖=暴力」も、それに伴って「反(非)人間」を「生ける屍」として収容し、監視・管理する形態へと変容したのだ。「恐怖=暴力」はいくら切断しても都合良く消えはしない。「人間」の枠内に薄められ拡散しているだけだ(だが本当に薄められているのか)。もはや「人間」主義や「人間」性そのものが懐疑の対象なのだ。「歴史的必然」は可能かという懐疑は、すでに「人間」は可能か、「人間的な、あまりに人間的な」は可能かという問いへと加速しているのである。「ポスト・ヒューマン」というお題目はその表現だろう。さて、どちらかの「恐怖(テロル)」を選ばねばならないとしたら、では「生ける屍」化させる暴力が「恐怖」だろうか、あるいは革命が「恐怖」だろうか。
おそらく、大江が最も「反(非)人間」の「恐怖=暴力」に接近したのは、『万延元年のフットボール』(一九六七年)の高名な「本当の事をいおうか」のくだりだろう。「鷹四」は、その「絶対的な本当の事」を言ってしまえば、まさに「反・人間的な怪物」になってしまうほかないと言う。
〔…〕本当の事をいおうか」といった。「これは若い詩人の書いた一節なんだよ、あの頃それをつねづね口癖にしていたんだ。おれは、ひとりの人間が、それをいってしまうと、他人に殺されるか、自殺するか、気が狂って見るに耐えない反・人間的な怪物になってしまうか、そのいずれかを選ぶしかない、絶対的な本当の事を考えてみていた。その本当の事は、いったん口に出してしまうと、僕にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なんだよ。
むろん作中で示唆される、言われざる「本当の事」の内容は、「白痴の妹」との近親相姦と妹の自死だが、そうした「現実界」的な享楽は、広く「反(非)人間」的な「恐怖=暴力」を含意していると捉えられよう。だが、大江は、この最も「反(非)人間」に漸近した地点において、「作家=フィクション」の「枠組」へと踵を返してしまったように見える。
「それでは、きみのいわゆる本当の事をいった人間は、まったく出口なしというわけかい?」とたじろいで僕は折衷案を提出した。「しかし作家はどうだろう。作家のうちには、かれらの小説をつうじて、本当の事をいった後、なおも生きのびた者たちがいるのじゃないか?」
「作家か? 確かに連中が、まさに本当の事に近いことをいって、しかも撲り殺されもせず、気狂いにもならずに、生きのびることはあるかもしれない。連中は、フィクションの枠組でもって他人を騙しおおす。しかし、フィクションの枠組をかぶせれば、どのように恐ろしいことも危険なことも、破廉恥なことも、自分の身柄は安全なままでいってしまえるということ自体が、作家の仕事を本質的に弱くしているんだ。すくなくとも、作家自身にはどんなに切実な本当の事をいうときにも、自分はフィクションの形において、どのようなことでもいってしまえる人間だという意識があって、かれは自分のいうことをすべての毒に、あらかじめ免疫になっているんだよ。」
これは、「僕=蜜三郎」の誘い水にまんまと乗ってしまった「鷹四」が、自ら罠にかかっていってしまった場面として読める。鷹四は「享楽=現実界」的な「恐怖=暴力」を、自ら象徴界的なフィクションの「枠組」へと回収し、「自分のいうことをすべての毒に、あらかじめ免疫」=ワクチンを打ったといえる。そういう意味では、「蜜」と「鷹」は共犯だろう。
この「作家=フィクション」の「枠組」は、そのまま「人間主義」の「枠組」へとスライドする。そこでは、どんなに「反(非)人間」の「恐怖=暴力」が描かれようと、それは「人間」的な「フィクション」内のことにすぎなくなるからだ。この「フィクション」の「枠組」を、「本当の事」を言おうとした鷹四に自ら導入させてしまうことで、以降、ほかならぬ大江自身が、「作家の仕事を本質的に弱くして」しまったのではあるまいか。「転向=回心」論による決定的な「反(非)人間」の喪失は、その帰結であった。繰り返すが、これは大江ひとりを襲った問題ではない。二○世紀以降、逃れがたくわれわれが見舞われている問題なのである。
(中島一夫)