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回心と転向――大江健三郎の二段階「転向論」その4

 大江が、中野の「転向」を渡辺の「回心」に接続したことは、「転向」が特殊日本的な問題ではなく、キリスト教西洋近代的な問題の一バージョンとして「普遍」化した一方で、結局は転向が天皇制の容認であったことを隠蔽する働きをした。同じくルネサンスを論じ、カルヴァンやルター、エラスムス、トマス・モアなど同じ対象を取り扱いながら、例えば花田清輝『復興期の精神』と渡辺のルネサンス論とは、方向が正反対と言ってよい。ざっくり言って、花田が転形期の下部構造を見ていたとしたら、渡辺の目は上部構造、さらに言えば超越性=神に向かっていた。渡辺『フランス・ルネサンスの人々』の「序章」には、「もちろんフランス十六世紀における新旧両教会の闘争は、単に宗教思想だけの問題ではなく、階級的な意味も政治的な動因も持っています。しかし、衝突する二つの勢力の指導原理の中心には、旧教会と新教会とがあったことは否定できません」といった一文が読まれるが、これはひょっとしたら、花田『復興期の精神』への批判も含んでいたのではないか。

 

 先に述べたように、渡辺のルネサンス研究においては、正統から異端が発生し、双方が硬直化し過激化していくプロセスが、半ば「人間」にとって不可避的なものとして描かれる。一方、花田においては、そもそも異端が異端として正統から分離してはならないのだ。両者はどんなに論争、対立しても、二つの「円」ではなく「二つの焦点=楕円」を形成する必要がある。分離してしまえば正統を弱体化させることにしかならないからだ。人間中心主義から植物、動物、鉱物へと脱中心化していった花田は、したがって「ポスト・ヒューマン」の文学者として捉えられたりもするが(藤井貴志『〈ポスト・ヒューマン〉の文学 埴谷雄高花田清輝安部公房、そして澁澤龍彦』など)、むしろ明確に一貫して反ヒューマニズム(反モラリスト)だった。まずもって「人間」主義と対決、論争し続け、正統にこだわり続けた「反」人間主義者として捉えられるべきだろう。

 

 花田=反人間を一方に置けばよりクリアになるが、中野と渡辺の差異はともに「人間」主義陣営における微細なものに過ぎなかった。それは「歴史の必然」の必然性を転向者による「代弁」として強弁する者と、世界史的な状況のなかでそれに懐疑を覚えざるを得なくなった者との差異だった。はからずも大江がやったことは、自ら畏敬する両者を結集させ、確固たる「立場」へと固めていくことだった。転向を「a=イデア」と「b=現実」の二段階に分け、回心を「第一=異端の発生」、「第二=異端の正統化」の二段階に分け、双方とも後者=二段階目にその完成を重ね見ること。渡辺においては、正統も異端も「硬化」に陥っていくことが批判の対象だったが、大江は「転向」を、渡辺の西洋ルネサンス的な「回心」の文脈で捉え返す(それによって転向=天皇制の容認は後景に退く)ことは引き継ぎながら、それをさらに進め、異端の硬化をむしろ自らが正統と化していこうとする「第二の回心」と見なした。

 

 それによって、転向や回心への「内面の揺れを、はっきり払拭し」(「最後の小説」)、すなわち、転向者の「やましい良心」を捨て去る行為と捉えたのである。転向=回心は、もはや正統である――。吉本隆明「転向論」は転向=非転向と見なしたが、大江は転向をさらに転向=回心させたといえる。大江にとっては「転向=宙返り」は、地面=根所(根拠地)にしっかり「着地」しなければならないのだ(この大江の「宙返り=着地」を、どこにもたどり着けない=着地しない「帰郷」の側面から明確に批判したのが、「何のための敬虔さか 『宙返り』論」(一九九九年)の福田和也だろう。先日の記事に書いた『ユリイカ福田和也総特集の拙稿を参照)。

 

渡辺のユマニスムを、より確かな「頼りになる」ものにすること。それは大江の渡辺に対する「祈願」とも言えるものだった。

 

〔・・・〕やはり私にとってもっとも頼りになる思想は、渡辺一夫のユマニスムだ、といいたいとも思うのです。そこで私は、デュアメルがエラスムスに向けた祈願の言葉を、自分としてはいま渡辺一夫に向けて発したいという思いにかられます。デュアメルは微笑しながらそうしたのでしたが、私の方では深い憂いに閉ざされるようにして。《・・・・・・先生、私共の為に祈って下さい! しっかりと私達の味方になって下さい。もし貴下が味方になって下さることを御承諾下されば、それだけでもう判ることなのですが、つまり、私共の主張も全く絶望的でないということになるのです。》(大江健三郎渡辺一夫の今日性(アクチユアリテ)」一九八七年)

 

 「しっかりと」「味方」になるよう「祈願」の対象となる渡辺は、さながら自ら棄教=宙返りして「反キリスト」者となり、なお教会の建設を断念しない『宙返り』の「師匠(パトロン)」である。『宙返り』の「師匠(パトロン)」には、まさに「第二の回心」のカルヴァンが、師匠=渡辺一夫に重ねられているのではないか。『宙返り』の「師匠(パトロン)」は、大江が見たかった(祈願したかった)渡辺の像ではあるまいか。

 

 だが、もはや「着地」できるような「根拠地」や「正義」は存在しないというのが、「故郷=根拠地」喪失者としてのわれわれの条件ではなかったか。冷戦終焉後のわれわれにおいては、故郷から放り出され「転向」や「回心」という「宙返り」が不可避である。これは自意識ではどうにもならない、われわれを規定する条件なのだ。だが同時に、その「転向」や「回心」を「二段階目=第二」でもって「頼りになる」ものへと「着地」を決めようとする誘惑をも断ち切らねばならない。そのジレンマが「転向」を宿命付けられた者の「宿命」ではないか。

 

 もはや「二段階目」は存在しない――言い換えれば、ラカンのいう「大文字の他者は存在しない=最後の審判という視点はない」。ジジェクが言うように、そこでは「デリダの「正義としての脱構築」ですら、永遠に繰り延べられ、つねに来たるべき、だが、にもかかわらず、われわれの行動の究極的地平としての此処という「無限の正義」の亡霊を持続させてもいる、ある一つの桃源郷ユートピア)的希望に凭れているかに見える」(『ロベスピエール毛沢東 革命とテロル』。この「無限の正義」は、黒田寛一の「永遠の今」や埴谷雄高の「未来の無階級社会の眼」を想起させる)。

 

 大江は、述べてきたように、おそらくは中野と渡辺の往復書簡における「対立」を(無意識に?)止揚しようと、中野の「転向」と渡辺の「回心」とを重ね合わせた。先述のとおり、往復書簡における「対立」は、「歴史的必然」に対する「仮定=ならば」は可能かという問題をめぐっていた。だが、結局それは、あくまで「人間」主義陣営内の問題設定である。「真の」問題は、「歴史的必然」が本当に「必然」なのか否かではない。たとえ「歴史」が「必然」であったとして、だからといって革命は、待っているだけでは決してやって来ないということなのだ。ジジェクは、まさにレーニンほど「歴史的必然」への依拠を排した人間はいなかったと言う。

 

〔・・・〕起こり得たかも知れないことの亡霊としてわれわれの「本当〔現行〕の」現実に取り憑き、普通では考えられないほどの脆弱性と偶発性といった状態をわれわれの現実(ほんとう)に与えるといったこの考え方は、マルクス主義にとっても異質なものとは決して言えない。というのも、革命的行動の切迫性の感得もまた、そうした立場に依拠しているからだ。

 もし十月革命が起きなかったらというお噺は保守的な〈たら……れば〉歴史家お好みの話題の一つなので、われわれもそうした〈たら……れば〉に相乗りしてレーニンその人を観てみようではないか。想像し得る限りで、彼ほど「歴史的必然性」への依拠を排した人間はいなかった。それどころか、まずブルジョア民主主義、次いでプロレタリア革命といった歴史的決定論によって予め規定された諸段階の継起を飛び越えることなどできないことを強調したのは、他ならぬレーニンの政敵メンシェヴィキだった。(『ロベスピエール毛沢東 革命とテロル』)

 

 「保守的な〈たら……れば〉歴史家」は、往復書簡の「歴史的必然」に「仮定=ならば」を導入しようとした渡辺の立場そのままだろう。それはそうと、後に見るように、「歴史的必然」を決定論=予定説として受容してしまえば、それはマックス・ヴェーバーが指摘した「資本主義の精神=プロテスタンティズム」と何ら変わらない。それこそ、渡辺―大江が注目したカルヴィニズムとその「予定説」がもたらしたものではないか(「その3」で見たように、ヴェーバーや花田のように経済的、政治的なレベルでカルヴィニズムを捉えることを拒否したのが渡辺―大江のスタンスだった)。

 

こうした議論は、その有名な著作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でヴェーバーが明らかにした、近代史全体の中心的パラドクスを回避している。カトリシズムは悔悟を善行に拠るものと理解してきたが、このように考えるカトリシズムとは対照的に、プロテスタンティズムは前世の約束(けいやく)を主張している。すなわち、救済あるいは天罰は神によって予め定められているという意識が、嗜眠をもたらすどころか、あらゆる人間能力の最強の動員、人類史全体において特筆さるべき熱狂的活動の爆発を支えた意識として働いたことをいかに理解すればよいのか? 同様なことはスターリン主義にも言うことができる。すなわち、「資本主義から社会主義への移行の歴史的必然性」という不細工(ベタ)な主張は、集団的意志を歴史の行程に強いるために為された人類史全体においてもっとも狂気に充ちもっとも血塗られた試みであり、またこの主張が、二○年代後期から三〇年代初頭にかけての人的資源の未曾有の動員を支えたことをどのように理解すればよいのか?(『ロベスピエール毛沢東 革命とテロル』)

 

 カルヴァンの「予定説」は、確かに世界を「呪術から解放」(ヴェーバー)した。だが、カトリックのように現世で善行を積んでも天国が約束されなくなったために、信者はそれに代わる「救い」の保証を求めることになった。「天職(ベルーフ)」に従事する「職業労働」がそれである。「職業労働」を天職=召命として与えられたとして遂行せず、怠惰な生活を送ることは、自らが神に選ばれていないことを「予定」されている証明になってしまう。したがって、そこでは「禁欲」が、そしてそれによってもたらされる「営利」が、むしろプロテスタンティズムの「エートス」となったのである。

 

(続く)

 




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