映画『ありふれた教室』が好評である。批評家やライターにも、概ねそのクォリティの高さが評価されている。だが、ラストシーンの不気味さについては、あまり言及されていないように思える。
ラスト近く、教師のカーラが、数学の得意な生徒オスカーに貸し与えていたルービックキューブが、六面揃えられた形で差し出される。当初オスカーは、一面も揃えられなかったのだから、彼がキューブを揃える、カーラ曰くアルゴリズムを理解し習得したことが分かる。ある事件をめぐって対立の極地にあったカーラとオスカーの間に、だがこの個別の「宿題」を通してかすかにコミュニケーションの端緒が現われた瞬間だった。もし映画がここで終わっていれば、確かに二人にとって祝福すべきラストといえる。
だが、問題はこれに続くラストカットだ。この後作品は、エンドロールとともに、無人の学校構内のインサートカットが続き、その後ラストで警察官二人に椅子ごと抱えられ連行されるオスカーが映し出される。このとき、オスカーが、満足げな笑みをたたえているので、あたかも臣下を従えた王が王座ごと担がれ「苦しうない」と言っているように見えなくもない。実はこのとき、事件をめぐってオスカーは停学処分中にもかかわらず登校するという「抗議」行動に出ていた。したがって、「最後まで抵抗したぞ、屈服しなかったぞ」という満足ともとれる。全面揃えたルービックキューブをカーラに差し出したのも、ひょっとすると、母に対して「先生がやったことは一面的な「主張」で、完全な「証明」ではない」という無言の「抵抗」だったのかもしれない。数学の授業で、「主張」と「証明」の違いを、「証明」は一つ一つ導き出していくものと言われたカーラの教えを、逆に突きつけた格好だ。
いずれにせよ、「不寛容方式」という耳慣れない学校方針――いかなる事情があろうとも、ルール違反には厳粛に対処する。さまざまな国籍、民族、文化的背景の生徒がいる学校なので、超越的なルールを一律に課すという「方針」か――が掲げられている学校現場において、停学処分中のオスカーが警官に運び出されるという状況が、祝福されるべきラストであるはずもない。ましてや、「不寛容方式」に何かと疑問や不満を覚えてきたカーラが、自らのクラスの生徒が警察に連行されることを、おとなしく受け入れたとは思えない(オスカーが教室に入ってきたとき、カーラが「こんな展開望んでなかった」と言ったのは、その後の「展開」の予告ともとれよう)。確かに、『ありふれた教室』は、教師カーラの内面や心情ではなく、「行動」が描かれる良作だが、最も見せてほしかった警察に連行される際の「行動」が全く描かれなかったのが決定的に惜しまれる。今参照されるべきは、その種の「行動」だからだ。
監督のイルケル・チャヌクは、ラストのオスカーに、ハーマン・メルヴィルの『バートルビー』の主人公「バートルビー」の「行動」を重ねたようだ。法律事務所に勤める筆生のバートルビーが、その身に起きるあらゆる出来事に「できればしないほうがいいのですが」と応接し続け、ついには「食事はしないほうがいいのですが」と言って動かなくなっていく。その謎めいたありようには、ブランショ、デリダ、ドゥルーズ、アガンベンら、蒼々たる面々の考察がなされてきた。法律事務所を出て行くよう申し渡されたバートルビーが、「しないほうがいいのですが」と言って出て行こうとはしなかったように、学校に来てはいけない、教室を出ていかなければならないオスカーもまた、その場に居座ろうとする。飛んできた校長と同僚をいったん教室の外へと導き、オスカーと二人きりで教室にこもろうとするカーラは、熱りが冷めるのを待って軟着陸を図ろうとしたのかもしれない。ラストカットの警官の介入は、カーラの「説得」が不発に終わったことを示している。
繰り返せば、この時カーラや教員らがいかなる行動を示したのかはまったく映されない。オスカーにバートルビーを重ね見る監督の視線は、すでにカーラではなくオスカーに移っている。「ああバートルビー!ああ人間!」と閉じられる『バートルビー』よろしく、盗難の嫌疑をかけられた母親を、学校全体を敵に回しても守り通そうとしたオスカーに「人間」を見ようとしたのかもしれない。その「人間」を、アガンベンなら「ムスリム」(ムーゼルマン)と呼ぶだろう。
アガンベンは、潜勢力に関するイスラームの思考の一潮流(宿命論として認識されている)を紹介し、「ナチスの収容所(ラーガー)の住人のなかでも最も暗い形象である「ムスリム」の名はここに〔つまりイスラームの宿命論に〕由来する」とだけ注記しているのだ。
「ムスリム」とは、第三帝国の収容所で、生きる力を失い死を待つだけの収容者を指すために用いられた隠語である。彼らがそう呼ばれた理由はつまるところ不明だが、立つこともできずに座りこんで体を屈している姿勢がムスリムの礼拝の様子に似ていたからではないか、という憶測もある。その是非はともかく、確かなのは、彼らに唯一残された身振りがその屈服の姿勢だったということだ。それは身振りとも言えない身振り、他の身振りを気力もろともにすべて奪われた者の身振りだ。(高桑和己「バイトルビーの謎」、ジョルジョ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』解説)
「ムスリム」の「屈服の姿勢」に「潜勢力」という可能性を見ること。強制退去させられつつ笑みを浮かべるオスカーにも、なにがしかの可能性が胚胎しているということだろうか。だが、むしろ、この「バートルビー=ムスリム」は、すが秀実のいう「内ゲバの論理=生政治」によって一元的に統治され(アウシュヴィッツ体制!)、「心身ともに生ける屍」として「のみ」生存を許された「存在」を彷彿とさせる(『革命的な、あまりに革命的な』ほか)。ラストカットへと続く無人の校内のインサートカットも、「人間」としての「存在」が許されなくなったような、監視=管理の徹底された不穏な「キャンパスの「平和」」(ここは大学ではないが)を映し出しているともとれよう。こうして見てくれば、この作品は、現在猛烈に批判(運動となりつつある)を呼んでいる『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』(代島治彦)と重ねて見られるべき作品かもしれない。その意味で、『ありふれた教室』という日本語タイトルは奇しくも秀逸である。「68年」以降、生政治による学内「平和」は「ありふれた」ものになったということだ。おそらく、ラストシーンにその不気味さを見る者だけが、「ありふれた教室」へと帰結した「現在」の歴史性を感受するだろう。
作品が、盗難事件の犯人捜しの尋問で、学級委員に「最近様子がおかしい生徒」を名簿で指させるシーンに始まり、続いて授業中に校長が乱入し、財布の中身を抜き打ち検査することを忘れてはならない(このような手法が、クラスにおける担任カーラの立場を危うくさせていったことは想像に難くない)。この学校の「不寛容方式」とやらは、大げさでなく、密告が茶飯事だったかつての「秘密警察」をも思わせる。ここは、市民社会が縮減され、監視=管理が常態化している「ありふれた教室」なのだ(カーラの失敗は、盗難の犯人を自らのPCで盗撮して捕まえようとしたことだろう。彼女はいつのまにか監視・管理による学内「平和」に加担してしまったのだ)。
「死へと行き急ぐものが存在する。そこには意味も生産性もない。それはどのような矯正の試みにも抵抗するが、だからといって、抵抗するにあたって何らかの強い力を示すわけでもない。〔…〕ましてや「政治的なもの」としては――口にすることすらためらわれるように思える。だが、この特異な形象の出発点こそ、まさしくこの生死の判別しがたい姿勢なのだろう。メルヴィルが試みたのは、この像のなさ自体の痕跡を残すことだったのかもしれない。」(高桑・前掲論)
果たして、現在の「ありふれた教室」において、こうしたバートルビー=オスカーの「行動」ならぬ行動、「抵抗」ならぬ抵抗に、本当に可能性はあるだろうか。
(中島一夫)