江戸時代に毛利家を藩主とし、萩に藩庁を置いた長州藩。
幕末には薩摩藩とともに討幕運動の中心となり、明治維新の原動力となりました。
欧米列強の植民地獲得競争が東南アジアや中国にも及んでいた時代。
維新後の明治政府に多くの人材を輩出し、近代日本の礎を築きました。
今月の16日、萩を訪れ幕末の志士の足跡を辿ってきました。
激動の時代に理想とする国家像のために奔走する若き群像たち。
戦乱の中で、志半ばで倒れる人たちも多くいましたが、新政府を率いて日本の近代化に活躍した人たちも多くいます。
時代の草創期に懸命に生きる人たちの姿には心打たれるものがあります。
目 次
萩へ
始発電車で羽田空港へ行き、空路約1時間40分、山口宇部空港に向かいます。


山口宇部空港からバスで約40分、新山口駅に向かいます。


新山口駅から高速バスで約1時間、萩・明倫センターバス停に到着しました。


近くには、明倫学舎があります。

長州藩の藩校だったところで、現在は、レストランやミュージアムなどが整備されています。
隣に中央公園があります。

一角に、明治の元勲「山縣有朋像」があります。

陸軍大将、内閣総理大臣などを歴任しました。
その近くには「久坂玄瑞進撃像」があります。

久坂玄瑞は、吉田松陰から「天下の英才」と絶賛されたそうで、松陰の妹の文(ふみ)と結婚しました。
1864年の禁門の変(蛤御門の変)で敗れ、24歳で自害しました。
萩城下町
それでは、世界遺産・萩城下町へ行ってみましょう。
今回、巡ったのはこの辺りです。

江戸屋横丁です。

長州藩医・青木周弼(あおきしゅうすけ)の旧宅です。

古い町並みです。

周辺には表札を掲げた普通の民家もあり、今も生活が営まれているようです。
1866年に薩長同盟を結んだ木戸孝允(桂小五郎)の生家です。

菊屋横丁に入りました。

久坂玄瑞と並び「松門の双璧」と称された高杉晋作の生家です。

観覧料は100円です。

若き志士たちです。

左の写真の中央は高杉晋作、右は伊藤博文です。
晋作の産湯に使った井戸です。

高杉晋作は、列強に支配された上海を視察し、危機感を抱き、1863年に身分を問わない我が国初の軍事組織「奇兵隊」を結成しました。

1867年、結核のため27歳で、志半ばでこの世を去りました。
近くに晋作広場があります。

高杉晋作立志像です。

菊ヶ浜
城下町を後にして、菊ヶ浜を見て、松下村塾に向かいます。
西に道を進みます。

田中儀一の像がありました。

第26代内閣総理大臣です。
北へと向かいます。

旧萩城の北総門がありました。

菊ヶ浜が見えてきました。

女台場入口のバス停につきました。

振り返ると、萩城があった指月山です。

沖に萩六島といわれる溶岩台地の島が見えます。

北東方面です。

まぁーるバス「松陰先生」がやってきました。

松下村塾へと向かいます。
吉田松陰と松下村塾
松下村塾は、松陰神社の中にあります。

吉田松陰を御祭神とする1890年に創建の神社です。

松陰は、萩藩士杉百合之助の次男として生まれました。
5歳の時に、藩の兵学師範を勤める吉田家の養子となり、6歳のときに養父の急逝に伴い吉田家を継ぎました。
19歳で山鹿流兵学師範となり、藩校明倫館で教授を行いました。
1854年に下田に再来航したアメリカのペリー率いる軍艦に乗り込み、米国への渡航を交渉しますが、拒否されました。
海外渡航禁止令を犯した罪により、萩の野山獄に投じられました。
獄中にいた1年余、勉学に励む中、次第に尊王攘夷思想に傾倒していったそうです。
1855年に獄を出て、実家の杉家に幽閉の身となりました。

三畳ほどの幽閉室で親類や近所の若者たちに講義を行うようになったそうです。

そして、1857年、叔父の玉木文之進が開いた私塾「松下村塾」を28歳の松陰が引き継ぐことになりました。

(国指定史跡・世界遺産)
身分や階級にとらわれず塾生として受け入れました。

松陰が塾頭を務めたのはわずか1年余りの間でしたが、
久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎など、
明治維新の原動力となり、明治新政府で活躍した多くの逸材を育てました。

しかし、その後、幕府は「安政の大獄」で、幕政を批判する人々を取り締まります。
松陰にもその疑いで江戸に送られ、1859年に29歳という若さで処刑されました。
松陰の意思は志士たちに受け継がれ、やがて倒幕への原動力となりました。
そして、明治維新後の近代日本を牽引することとなります。