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今東光『悪童』



 今東光は、金子光晴永井荷風谷崎潤一郎などと並んで、「戦後」のジャーナリズム的環境の伸張とそれに見合った大衆的読者層のリテラシーの深化の併せ技で、晩年をそれまでと違う脚光の浴び方をした「文学」界隈の幸せなキャラクター、だと思っている。それは、戦前から生き延びていたということがひとつ下地となっていて、でもその間ずっと不遇だったり逼塞していたりで表にあらわれぬまま、敗戦をはさんだ「戦後」の言語空間に「再発見」「再評価」された、という「おはなし」によって補強されるかたち。

 「澄んだスープに玉子を落したもの。伊勢海老にマヨネーズをかけたもの。若鳥を焼いたもの。冷めたい肉。乾葡萄入りのバタで炒った御飯。それに季節の果物。紅茶などであった。」

「新鮮な牛乳、胡桃、乾無花果、野菜サラダ、ハムエッグ、コールドビーフ、オートミルである。それに父の船のもたらせたマンゴオの珍果が食後に出た。」

 これらを姉妹の女中だというおよね、おいねがこさえるような家。大正初年頃の神戸市内、いくらなんでも相当に例外的なハイソでハイカラで贅沢な家庭だろう。日本郵船の欧州航路の船長の息子という、彼自身の生い立ちからくる実際の見聞が下敷きになっての記述であることはもちろんだ。もっとも、話を「盛る」のは今東光、かなりの程度にお手のものではあるようだから、このへんも後年からの粉飾があるかもしれない、という程度には相対化しておいた上で、それでもなお、ということではあるのだが、それはともかく。

 阪神間モダニズムの先端性とそのケタ違い、ということでもあるのだと思う。そして「港町」という土地柄が必然的にはらんでいた文化的風土というか、少なくとも近代と共に開鑿された港湾で海外航路の大型船が出入りるような港町ならば、ごく一部の上澄みであったとしても、これくらいの尖端的なモダニズムのありようはその風土の懐にはらみ得るものだったのだろう。横浜や神戸、そして函館や小樽、門司および小倉なども含めた北九州なども近いと思う。そして、それらの土地に宿った文化的風土からは、半ば必然として文学や芸術といった方向に自我形成の可能性を開放してゆく新しい世代が出現してくるものではあったらしい。それこそ、今東光ばりに言えば「バラケツ」だ。

 不良であり遊民であり、ボヘミアンであり危険分子でもあり、いずれそれらろくでなしの、そのどれもでもあるような存在。おのれがそういうものであったこと、を振り返りながら「おはなし」として記述し、再提示してゆく作物もまた、「戦後」の言語空間と情報環境において、それまでと違う形、異なる文脈で、世間一般その他おおぜいの広く喜ばれ、楽しまれる商品としてさまざまに流通してゆくようになっていた。思えば、今東光や、冒頭掲げた書き手たちの戦後の作物のある部分には、必ずそのようないわば「青春」「若気の至り」をなつかしみつつ振り返る、といった態のものが含まれており、またそれらがその書き手自身のメディアの舞台上での意味あい、今様なもの言いでいうところの「キャラ」の輪郭をくっきりとさせてゆく効果を持っていた。このあたりは、「作家」「文学者」といった存在がどのように「キャラ」化していったのか、といった大きな問いとも関わってくる。

 閑話休題。ここで描かれ、ふりかえられる今東光自身の「青春」譚は、何も「文学」の間尺で読み解こうと膝を揃えて行儀に構えずとも、もっとラフにくだけた調子の「おはなし」として、それこそ本宮ひろしあたりの手で全盛時の『少年ジャンプ』あたりで連載マンガ化されてもおそらく相当にうまくハマるような、見事に通俗で大衆で手堅い売れ筋商品な味わいである。

 「学院の風紀部の制裁には、小さいことには欠礼から喫煙など数々ある中で、女色と男色は最も重い罪であった。しかしながら男色は最も魅力に富んだ学生の艶情であった。」

 当時の関西学院中等部、カトリックキリスト教の縛りというだけでもないホモソーシャル空間の「青春」に、単なる恋愛沙汰だけでなく、抜かりなくこの「男色」の位相も織り込んでくる。そうできることが、書き手としての今東光の資質であり武器だ。だからこそ、見ようによっては平板で通俗なまわりのおんなたちとのさまざまな交情沙汰も、期せずしてある立体的な空間の裡にプロットされ、それが同じ通俗であってもある深み、時空を越え得る質を与えてくる。

 「男の多くの場合、厳密な童貞というのは有り得ないと思われる。それは男性として賦与された肉体のフィジカル・パワーの故であろう。吾々は夢を見て精を洩らし、運動をした夜などでも精を洩らし、意識的に自慰行為をすることによって精を洩らすのである。」

 「私達は永い接吻をした。絹子の肉体から強い芳香を放つのに私の感覚が酔い痴れるのに驚いた。この年頃の娘の皮膚から発散する芳香が一番強烈なものであることを知ったのはずっと後のことであるが、私はそれを知って骨の髄まで昂奮するのであった。」

 単なる描写、二次元の文章上にたまたま選ばれて挿入されるシーンではなく、それらは必ず書き手の身体、生身の官能と対応させて紐つけられ、その制御の下に配置されている。それがどこまで方法的に自覚されていたかどうかは知らない。でも、眼前の文章はそのように「読む」ことへと、こちら側の読み手をぐいぐい引きつけて導き、引っ張ってゆく。

 明治末から大正期にかけてのボヘミアン的な若い衆らの一群、時にパルナシァンとまで臆面なく自称して恥じることもないくらいの見事なまでの若気の至りな昂揚にドライヴされた全能感は、もちろんそれら「おはなし」を裏打ちする竜骨になっている。「青春」という語彙を彼はそれほど使っているわけではないが、しかしそれはあの「戦後」的な内実に鞣された、それこそあの吉永小百合と浜田光男の日活映画的な通俗とはおそらく確実に異なる手ざわり肌ざわりのその頃、その時代における通俗としての「青春」のありようを目の当たりにしてくれるものだ。

 そのように考えれば彼、今東光の名を一躍、高度成長期の本邦世間一般その他おおぜいの集合的意識の銀幕にくっきりと残すことになったあの「悪名」にしても、あるいはその直前、いわゆる文壇的な世間に「再登場」するきっかけとなった「河内もの」にしても、それら一連の彼の仕事というのは、実はにわかにはそうと思われないくらいの堂々たる戦前由来、いや、もっと大風呂敷広げるなら、本邦近代に早い時期からうっかり宿ってしまった「青春」を描いた絢爛たる文章絵巻だったのではないか。

 とすれば、この「悪童」でも「悪名」でも、今東光の作品世界は「悪」ともうひとつ、この「童」に対応する「少年」によって地模様が織りなされているのだろう。それは単に「少女」との対義語としてなどにはもちろんとどまらない、ある種の「青春」における仮想的な主体、「おはなし」世界の立役者群に共通する意匠としてのものだろう。

 たとえば、そうだな、「おんなぎらひ」についての細部、個別具体の挿話や心象描写にだけでも合焦して読んでみる、そんな外道な読みからでも、いやもしかしたらそんな外道な読みの試みをそれぞれが勝手に繰り出してゆくことこそ、今東光のこれら「自伝的」と迂闊に評される「おはなし」仕事群の今日的可能性を切り拓いてゆくはずだ。*1




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