
みらい、は政党なんかじゃなく、単なるレントシーカーの互助会かつロビイング集団みたいなもので、政治的な思想信条や国家観などは持っていないから、どんな政局であれ「実利」「役に立つ」という触れ込みで何でもあり厚顔無恥最凶ですり寄ってゆく。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2026年2月9日
公金🐭🐭の生体触手。
チームみらい、は政党なんかじゃなく、単なるレントシーカーの互助会かつロビイング集団みたいなもので、政治的な思想信条や国家観などは持っていないから、どんな政局であれ「実利」「役に立つ」という触れ込みで何でもあり厚顔無恥最凶ですり寄ってゆく。
つまり、ぶっちゃけ公金🐭🐭の生体触手。
だから、おそらく「選挙」「投票」などはもとより、そもそも「政治」の理解からしてまるで違うはず。公共のカネを効率的に「論理」の正当性ごかしに自分たちに流させるのが「政治」で、それを動かすエンジンが「選挙」、ガソリンが「投票」に過ぎないのだからこれも当然「論理」的に操作すべき標的である、と。
目的がそのようにあらかじめ設定されているのだから、そこから結論ありきで逆算して「論理」も組み立てられるし、ことばなんざそのための単なるツール、ないしはいくらでも取り替え可能なパーツに過ぎないから「自分」と全く紐付いてなく、だから発言などはその場その場でいくらでも変わってゆけるし、それこそ「合理的」「効率的」で「賢い」証しだとすら思っている。
面倒なところは他人任せで、スマートに見えるところだけ任せて!というような感じを受けます。政党とは思えない。
なんというか、彼らにとって、政治システムというのは、でっかいプラモデルって気がしまちゃいますねえ。
こういう「言葉と自分」が初手から肉離れしたまんま、いくらでももっともらしいことだけ出力し続けることのできる不気味さみたいなものは、それこそAIと地続きなわけで。
政治や選挙がらみの「世論調査」などでよくある質問項目の、候補者の「人柄が信用できる」なんてやつも、「キャラが信用できる」に置換できるのか、といった問いにもつながってくるわけで。「人柄」「人格」と「キャラ」の間の連続/不連続問題というか。
このへんの問いを、「政治」に関わる文脈において本腰入れて「考える」ことができるかどうか。そもそもそのための下地から共有できる界隈、残念ながらまだ少数派だと思う。
「政治」学、でも「社会」学、でも、おそらく「経済」学、なんかでも基本同じだと思うけれども、いずれそういう眼前の現実、誰もが日々そこに巻き込まれながら生きている〈いま・ここ〉の現実とそこにはらまれる〈リアル〉を何らか相手取りながら「考える」をせにゃならん領域――まあ、ぶっちゃけ昨今公共の敵になりつつあるあの人文社会系だったりするわけだが――において何らかまともな仕事をしようとする場合、すでに蠱毒化エリジウム化して「そういうもの」化している言語空間&情報環境に平然と棲息しているだけでなく、もはやそれを自明のものとしたところから発生してきた個体群が世代を重ねて現前化しているらしいことまで見越した視野の奥行き、焦点深度から実装することがまず最前提の必須条件になってくる難儀な現在。
AIに置き換えられる、という作業なり仕事があるのだとしたら、そういう蠱毒化エリジウム化した言語空間&情報環境に「そういうもの」として特化した/された「キャラ」に背乗りされた生身抱えたゾンビがたからこそ真っ先に、なんだと思っている。
てか、AI的土俵に乗って勝負した/させられたら、そりゃガチのAIに勝てるわけないどころか、勝ち負けとか対抗するとかでなく、一気に「取り込まれて同化される」しかなかろうもん。
AIがAI喰うのはあたりまえ
チームみらいのあの若い衆世代の「優秀」な人がたのもの言いや挙動から天然自然に垂れ流されているあの何とも言いようのない気配というのも、そういう「取り込まれて同化される」準備整った生体端末特有のもの、だと感じている。
そして、それがかつて幼生期オウムにハマった同世代の印象の記憶にシンクロするのは全裸老害化石脳ゆえかもしれんけれども、でも、ほんとにこのシンクロ率の深刻さ、否定できないのよね。「超越的なもの/ことば」にうっかりハマって、それこそ身も心も≒タマシイまでも「腑抜け」にさせられてしもて、瞳孔全開&印象としてはマットブラックで奥行き皆無な黒目になってしもとるやつ。
テレビその他での露出が急に増えたから、地方の高齢者にもなじみができて無党派層的な票の受け皿としてみらいが機能した、という説明それなりに理解できるけれども、ならばどうしてそれが特定の地域や自治体で特異的(だろう)に比例票が集中した(ように見える)ことの説明は、さてどうしよう。
それも含めて「組織票」が疑われるような、そしてだから「陰謀論」的な説明にも傾きかねないような数字や現象が「ある」ことと、人脈その他さまざまな「背景」や「黒幕」「ケツ持ち」(的な)関係が背後に見え隠れしていることとは、また別の説明が必要になってくるんだとおも。
あと、少し別の角度からの話になるが、「地方」「いなか」の「高齢者」「浮動票」といったくくりでイメージするものの内実も、もしかしたら相当現実とズレたものになっている可能性。特に情報環境の整備のされ方とそこで普通に摂取されている情報のありようとの関係において。別途要審議のお題だが。
「高齢者」で「無党派層的」な有権者って、すでに定年して現役退いていることで、現役時代のさまさまなしがらみや利害関係、つきあいその他からひとまず自由になっている分、エリジウム的な価値観世界観での投票行動にシフトしやすくなっているとか、そんな事情もあるのかもしれんし。
そういうある種の「解放」のされ方をうっかりしてしまったそれなりの高齢者って、失われた「自分」の「自由」を一気に取り戻そうとしてワヤになるのは、定年後に蕎麦打ち始めて蕎麦屋やったりするのと同じで、現役時代は肩入れできなかったゆるふわキラキラお花畑な能書きに全力でハマったりする。
ましてそれが「若者」(実は死語だとおも)の、自分たちにはよくわからない「新しい考え方」というガワがまぶされていたりしたらさらにブーストかかって、それらを理解して「応援」(これも危険)している自分はカッコいい、的自己満足まで附録でついてくるのでワヤ無限大。
それまでそれなりに安定した家庭生活で夫婦仲も維持してきていても、嫁の側が先行してそれらゆるふわキラキラお花畑症候群にハマってたりすると、それまでは距離感ありつつも実は微妙に羨ましかったりもした分、現役離れると一気にそっちに「寄り添う」ようになったりも。
現役引退リタイア組の60代後半あたりの夫婦で、共にゆるふわキラキラお花畑症候群にハマっているような事例は、それはそれで「円満」「仲良し」な「うまくいっているシニアカップル」的にメディアで紹介されたりするから、そこでエコーチェンバーがさらに濃密に構築されてゆく難儀も、また。