
「網羅する/しなければならぬ」という了見が気に入らない。*1
前々からではある。
……いや、ここはできるだけ正確に言おうと努めた方がいいのだろうな。
そう思ってしまう理由がおのれの裡にあるのでなく、他人事である外側にあること。そう思わされているに過ぎなく、そしてそのそう思わされている理由からして目隠しされているにも拘わらずそのことに気づかず、あるいはは気づけるだけの鋭敏さもなく、他人事の外側にある理由から逆落としにおのれをそのように鋳型にはめてしまっていること。それが気に入らない。
結果として網羅していた、それならばよし。そうなっていなくても、それもまたよし。いつか網羅している地点に到達するかもしれない、しないかもしれない、それら全部ひっくるめて常に一つの過程であり、その過程の一端でたまたま網羅していたということになるのならそれはそれ、あ、すげえな、おめでとう、で次にまた足をそれぞれの方向に踏み出してゆける。それだけのことだ。
「網羅する/しなければならぬ」というのがあらかじめ目標になる、なってそれが百点満点の到達点として設定された瞬間から、そこから逆算してあと何点加えてゆけばその満点になれるのか、という打算や計算、同じくそこを到達点としているまわりのあれこれとの競争や駆け引き、最もけったくそ悪い意味での「政治」などまでずるずると引き出されてきて、たちまちのうちにそもそものおのれもまた、水飴に足とられて身動きとれなくなった蟻みたいな無様をさらすことになる。そしてそのことに自ら気づくことも、まずない。
「研究」とか「分析」とか、いずれそういうもの言いで鋳固められる世間、いや、純粋に属人的な要素を排除したところで言語空間と限定してもいいが、何にせよそこでは「網羅する/しなければならぬ」という了見が天蓋のように覆い被さっていることになっている。
網羅してもしなくても、獲得できる〈リアル〉に違いはない。
このことに腹の底から確信が持てるようになるまで、えらく時間がかかっちまったのは、こちとらもまたその程度にその他おおぜいの凡庸凡俗量産型同時代生産物のひとつに過ぎなかったということではあるんだろう。
むかし、になるのだな、もう。あれは誰の書いたものだったのか、それすらもう忘れかかっているけれども、例によっての柳田國男の仕事についての言及で、折口信夫の作法との比較で引き合いに出されていたこと――たまたま自分の手もとに集まっていた、あるいは自分が目にした資料や材料を介して直観一発でうっかり結論にたどりついてしまう折口と、それをせずに、あるいは仮に同じような直観一発をやっていたとしても、敢えてそこから些末で個別具体な「事例」をあれこれかき集めてその直観一発の結論をして裏づけようとする柳田との違い、といった話を思い出す。そういう折口の仕事ぶりに対して柳田が、結果的に同じようなところに行き着くのだけれども、でも、あの折口君の直観一発にはかなわん、といったボヤきとも感嘆ともつかないようなことを言っていた、ということも含めて。
「科学」というもの言いに、あやまった慎重さや本末転倒の誠実さみたいなものまでうかうかとまつわらせてしまってきていた、少なくとも人間と文化、文明、社会、そしてあらゆる意味での想像力、といったたてつけで何ごとかを考えようとする世間においては、ということをもっとちゃんと言葉にしないことには、昨今の「人文(社会)系」的なるもの、に対する風当たりの強さに対する有効な足場も作れない。