「専門家」「頭のいい人」「情報をたくさん持っている人」がたは、「正しい認識」を持てるかもしれない。それゆえに「専門家」としての値打ちもあるのだし、またそれゆえに世間からの尊敬や尊重も受けてきた。ただ、その「正しい認識」を世間一般その他おおぜいのボンクラに「説明」「説得」することを馬鹿にしてないがしろにして、全てをワヤにしがちでもある。
同時に、その「正しい認識」自体が実は単なる憶測、その「たくさん持っている情報」ゆえの選択肢のひとつにすぎないことを、「専門家」という自負やプライドゆえに忘れてしまった勘違いだったりすることも、十分にあり得る。
また、その自負やプライドゆえに馬鹿にして、あるいはないがしろにしてしまう世間一般その他おおぜいの側がすでにうっかり宿してしまっているかもしれない何らかの「常識」、ないしはそれなりにまっとうかもしれないものの見方や考え方が、その「正しい認識」に普通に批判力を持っているかもしれない。
そういう世間一般その他おおぜいの凡庸通俗ボンクラの側の「批判力」による、それら「専門家」の「たくさん持っている情報」に依拠した「正しい認識」も、その前提の「情報」が別線でそれなりに開示されていると、ボンクラなりの「正しい認識」も違う形で導き出されたりもする。
人間と社会、世の中の〈いま・ここ〉に関わる領域ならなおのこと。世間一般その他おおぜいの凡庸通俗ボンクラの側がうっかり接してしまえるようになっている「情報」(それはノイズまみれでいびつでがさつなものだが)もまた、「専門家」の「たくさん持っている情報」と良くも悪くも等価だったりもする。
「陰謀論」と呼ばれてしまうような、そしてそう呼ばれることで穏当な吟味や判断からもあらかじめ切断されてしまうような種類の認識もまた、それら「専門家」と世間一般その他おおぜいの凡庸通俗ボンクラとの間の、情報環境の地続き化が良くも悪くも進行した情報環境ゆえのあらわれなわけで。
すると、本邦「おキモチ原理主義」話法ってのは、「結論ありき」でそれにあわせてあれこれ「エビデンス」(のようなもの)を切り貼りしながら、でも結局「結論≒おキモチ」に流し込む手口ってことなんかな。
「私小説」の呪いの変形版、かもな……
個人的な感情やおキモチの類、まさに「私的」な領域なんだが、それをどのように「公共」領域につなげてゆくか、というたてつけの部分が本邦、どうもいろいろ歴史民俗的経緯も含めて、未だにうまく整理・共有されていないところがあるのだろうな、と。
まあ、これもまたいつもの「ことば」の問題、に立ち戻らざるを得ないんだが。
頭悪い馬鹿にも理解(わか)らせる事を「啓蒙」と称していたはずですが、今のパヨクともは啓蒙するのではなく、頭悪い人間を見下して調伏させようとしかしてないもんな
「蒙」の相対化&大衆化。インプットできてもアウトプットができない。
というか、そのアウトプットのありよう、方法なども含めての穏当な吟味ができなくなっていたりするわけで。