
〈いま・ここ〉の現場が、どのように新たな媒体と共に分解され、再構成可能なものになっていったか、という過程について。あらためて手もとの備忘、ごくごく雑なメモとして。
そもそも文字、ないしは文字に準じるような「記録」技術の誕生というのが、その端緒だったわけで。「記録」して何らかの媒体(つまりブツだが)に記された情報が、その記録されるべき〈いま・ここ〉から引き離されて可搬性を持つようになった瞬間から、それらの文明史的過程は始まっていたことになる。まあ、このへんそれこそマクルーハンだのベンヤミンだの何だの引っ張ってくれば、なんぼでも後付けなりおベンキョ的なぞり方なりできるだろうけれども。
ただ、合焦しておきたい射程距離というのは、ひとまず近代的な技術を介した「記録」が可能になって以降のこと。ベンヤミン的な視点からすれば写真や映画など映像系の記録技術から前景化してゆくところだったわけだが、個人的に気になるのはむしろその意味で音の方、録音による音そのものの「記録」技術の出現ということの方ではある。
音だけが現場の〈いま・ここ〉から離れて「記録」され、媒体ごと可搬性を持ち、そして再生もできるようになる。時間も空間も飛び越えたところで音そのものが、まずは持ち運びできるようになる。
時を前後して写真が、そしてすぐに映画が、映像の「記録」を可能にして、それらも持ち運びできるようになり、再生機器があれば同じく時間も空間も飛び越えられるようになる。
音だけ、画像映像だけ、が別個に再生可能になっていた段階から、じきにそれらも統合されるようになる。サウンドトラックを持ったトーキー技術の登場。映画の意味が、単に動画だけの録画再生から、音楽含めての音声を伴ったものに変わって、分解された〈いま・ここ〉を再びそれらを同期させることで再生・再現することもできる、という認識が広まってゆく。と同時に、ベンヤミンが強調していたような意味で、動画の映像はフィルムを切り貼りすることで「編集」できるということも認識の裡に織り込まれるようになり、それは音声についても同様で、そこからさらに手を加えて加工する方向へも技術は新たに導かれてもゆくのだが、それはひとまず別の話。
文字による「記録」はその可搬性は付随して付与されたけれども、その再生というか、〈いま・ここ〉の再現という意味においては、その間に生身を介した「読み」「解読」という変換過程を差し挟まないことには成り立たないものだったから、その分、〈いま・ここ〉そのものというわけにはいかず、同じく生身を介した上演という過程をさらにくぐらせた上に、加えてそれらを観たり聴いたりする受け手や聴き手による再度の解読過程をも想定しないと、何らかの〈いま・ここ〉につながる〈リアル〉は現前化できなかった。また何よりもそれは、そのはるか後の音声と映像の記録・再生のそのものとして否応なく現前するありようとは異なり、どこかで生身の「読み」を介在させないことには〈いま・ここ〉の再生にいくらかでも近づくことはできなかった。
もちろん、映画的な意味での映像的な〈いま・ここ〉の再生にも、それらに対する「読み」の過程は生身を介して差し挟まれるのだが、しかしそれは文字による記録・再生の過程において生身の「読み」が記録されたものの上演・再生も含めて関わってくる場合と異なり、映像自体の持つ視覚的な直接性や具体性によって、生身の「読み」の介在してゆく水準がより外在的というか、映像自体に規定される度合いが非常に強いものにならざるを得ない。スチールの写真ならば現像から焼き付けの過程で加工しない限り、動画についてでも再生機材が撮影機材との間で異なる仕様の動き方をするようなものでない限り、再生された映像そのものが視覚的にどうしようもなく現前してしまうこと、そしてそれがどのような「読み」≒解釈を生身によってされようとも、そこに現前している映像としては〈いま・ここ〉の引き写しにしかひとまず見えないという事実については、容易に変えようのないものになっている。
さらに付言しておくならば、「文化」というコードの違いよるそれらに対する「読み」≒解釈の違いもあり得ることは、その後の文化人類学的な経験によって確認されるようになってゆくわけだけれども、そしてそれは言語と認識といった人文的な大きな問いに関する新たな視野を提供してゆく契機にもなっていったわけだけれども、それらはまた別の話になる。文字を介した〈いま・ここ〉の記録・再現の過程と、映像を、そして基本的に音声も同じだと思うのだが、それらの記録・再現の過程とでは、生身の「読み」≒解釈の介在する深度というか、〈いま・ここ〉の再現、再提示という意味においての現前性が本質的に異なるところがあらざるを得ないように思う。
「見る」「聞く」という生身の行為が、映像や音声そのものに対してと、文字も含めた広義のことばに変換されたものに対してと、それぞれの場合において、その直接性や具体性という意味でひとつ違う水準に属するものになっているらしいこと。別な角度から言い換えるならば、音声や映像の再生と、文字やことばの再生との間には、上演という過程が介在するかしないかという点で、本質的な違いが露呈してしまうということ。再生機器による再生・再現には上演は介在しない。いや、全く介在しないわけではないのだが、文字やことばに対する「読む」のような生身の内面も含めた上演性は希薄にならざるを得ない。
そのように考えてゆけば、あの「戯曲」という形式での文字表現、少なくとも〈いま・ここ〉の現前としての上演をあらかじめ規定するような意味で成り立つようになって以降のそれは、〈いま・ここ〉の分解と再生の過程という(演劇的上演本来の意義からすれば至極限定的ではあれど)文脈で考えるのなら、映像や音声のように外在的な再生機器などが介在しないという点において、「記録」されたものに生身の「読み」が直接に関わるということで、〈いま・ここ〉につながる〈リアル〉の現前化がかろうじて担保されていることになるのかもしれない。もちろん、それは上演だけが本質であった演劇的現前の意義を重視する立場からは外道なありようでもあるのだろうが、まるごとの現場としての〈いま・ここ〉の上演から、音声だけ、あるいは映像だけがそれぞれ別の経路で「記録」され、あるいはそれらをまた統合して再生・再現できるような技術的環境が整えられるようになっていった中で、逆縁とは言えひとまず文字による「記録」(本来的な意味での「記録」とは違うものの)を何らかの再生・再現へとつなげてゆく道筋を担保していたことになるのかもしれない。
思えば、演劇であれ何であれ、それら〈いま・ここ〉での上演でしかあり得ない現場性、現前性を本質とする表現を「記録」しようという欲望自体が、そもそも宿りようのないものであり、また、そうであるからこそ考えることすらなかった時代が長かったのだろう。初期の映画好きが映画館の暗闇の中、懸命に手もとのノートにその場で「観た」ものやことを、そのまるごとの現前を何とか「記録」しようと格闘していたというその情熱なども、現場の上演の現前が〈いま・ここ〉においてだけあり得るものだった時代には、おいそれと宿りようのないものだったと考えるなら、文字であれ、あるいはその後の技術的発展によって可能になった音声や映像であれ、それら現前の〈いま・ここ〉を「記録」しようと思う、そう考え始めることこそが、大きく言えば〈いま・ここ〉にしか宿りようのなかった何ものか――それが「神」であれ何であれ、いずれ「この世ならざるもの」の零落、流竄の始まりだったと言える。*1
*1:例によってとりとめなく続く何らかのお題の一環として