
「政治とカネ」というのがあれほど未だに何らかの吸引力がある、というのも、事実としてどうこう以前に、そもそもの「おはなし」としての効きがそれほど圧倒的であり続けてきていた、という事情があるんだろう、とあれほど、な。
それは「クリーンな政治」wとか、そういう対抗的な能書きと共に喧伝されてきて、ゼニカネの損得や私利私欲などと距離のある、ある意味超然としたリーダーシップなり親方ぶりに対する、本邦世間一般その他おおぜい常民民俗感覚レベルでの「おはなし」介した「正しさ」の表現でもあり続けてたらしく。
ゼニカネに恬淡として執着しない、という「信頼」と、同時にゼニカネなど具体的な実利含めて「面倒みてくれる」という「信頼」と、実はどちらも共に求められてはいたんだけれども、親方やリーダーに対しては。
恬淡として執着しないのは、その親分親方の「私」の部分についてであり、でも「公」の部分、彼(なり彼女)が足つけてその裡に生きてある半径地域や地元、何らかの社会に関しては豪放磊落、どんどん使ってくれるという、そういう「恬淡」「無頓着」というのも表裏一体なわけで。
「無私」ということ、に対する「信頼」。そのように演じることも含めて。
だからこそ「おはなし」がそこに介在する必要があったわけで。
「ズル」をして「卑怯姑息」なことをして「私腹」を肥やしている、という「おはなし」は、かつての「資本家」から、戦後の「政治家」に至るまで、組織や集団よりも、ある個人、顔の見える存在の属人的な合焦度が閾値越えたところで一気に炸裂、燃え広がるものらしいのであります。 https://t.co/G61xEACf37
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2024年11月4日
「ズル」をして「卑怯姑息」なことをして「私腹」を肥やしている、という「おはなし」は、かつての「資本家」から、戦後の「政治家」に至るまで、組織や集団よりも、ある個人、顔の見える存在の属人的な合焦度が閾値越えたところで一気に炸裂、燃え広がるものらしいのであります。
「お灸をすえろ!」と断罪する人々が、まさにそう放言することによって覆い隠している『後ろめたさ』
彼らが声高に政治の浄化を語る時ににわかにおびる高揚感、剥がれたシールをもう一度貼り付けようと懸命に押し付けるような、あの必死さ。…
まったくのシロウト目線の野良読書でしかないけれども、それこそガルブレイスだのベルだのリースマンだのパッカードだの何だのの横文字(主としてメリケン系)経由のそれら「わかる」目的の言語化商品の輸入ものの経緯をそれなりに眺めてみても、本質的な問いそのものは未だに変わっとらんようで、な。
やっぱりそれが三次産業段階に「発展」「離陸」する段階で、何かその「わかる」を目的とした言語化なり言説のありようからひっくるめて、別のフェイズに本質的に変換or転生させられてしもたところがあった、と言わざるを得んようにはおも。
一次産業から二次産業段階までの「市場」を概括的に「わかる」ことを目的としたら、近経であれマル経であれ、いずれそういうたてつけで概ね、まあ、ざっくり理解はできるものだったんだろうけれども。
そもそものおもいっきり雑なハナシをすれば、具体的なブツとしての商品を生産点から何らかの意図や思惑含めて動かして集積し、適切に流通させてゆく、その過程での駆動源としてのゼニカネしか、いわゆる「経済」学の間尺では主題的に合焦されてきとらんかったわけで。
その「市場」駆動するゼニカネ、というのは、単なるゼニカネというだけでもなく、おそらく「広告」「広報・宣伝」(これほんまは別もののはずなんだが、昨今はもう一緒くたになっとる感)的な属性の上に流れとるゼニカネ、という意味なんでないかな、と。
この属性、かなり貫通力ある兇悪なものらしく。
政治家・代議士に対して、与野党老若男女不問で、そういう「市場」としての「民意」にだけ反応するようなチューニングが汎用プロトコル的なものを介して施されていった過程があるとおも。
それは学者文化人作家その他、少し前までの「知識人」なり「ムラはずれの狂人」なりに対しても、同じように。