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フシとタンカの〈リアル〉



 さて、話は浪曲へと赴きます。そう、あの浪曲、つまり浪花節です。*1

 フシとタンカが浪花節の骨組みであるということが、これまでも言われてきました。このフシとタンカの組み合わせは、もしかしたら前回少し触れたような意味での「会話」と「地の文」に対応するかもしれない、というお話です。

 このフシとタンカという区分けがいつ頃から浪花節に対して、聴衆、観客だけでなく、その上演に携わる者たちも含めて普通に認識されるようになったのか。たとえば桃中軒雲右衛門や吉田奈良丸の時代、明治期の後半、国民国家形成期の草の根ナショナリズムに投じて国民的な支持を獲得するようになって浪花節浪花節としての輪郭を整えていった、その勃興期からそうだったのか、そのへん気になりながらいまひとつはっきりしきれていないところなのですが、少なくとももう少し後、それこそあの二代目広沢虎造が「虎造節」と呼ばれたような上演の形をくっきりと示して、当時新たに励起し始めたそれまでの世間とまた少し違う内実をはらんだその他おおぜいである「大衆」にまた絶大な人気を博すようになっていった大正末から昭和初期にかけての頃には、フシとタンカの区別というのはそれら浪花節の聴き手にも、また上演する側にも共にあたりまえに「そういうもの」として認識されるようになっていたことは、まず間違いないようです。

 虎造自身、フシだけで聴かせる浪曲師としては声量も少なく、いまひとつ魅力に乏しいその他おおぜいの演者のひとりに過ぎませんでした。それが、レコードの録音技術が、同じSP盤とは言いながら音響的な震動を直接レコード盤に刻む込む機械録音からマイクロフォンを介した電気録音になってその精度があがり、スタジオの大きなラッパ型の集音器の前で蛮声を張り上げずともそれなりにうまく肉声を拾って録音できるようになったこと、そしてまた、ラジオが登場して、寄席での発声に近い程度の音量や声調での語りでもあたかもその場にいるように「茶の間」に身近に届けられるようになったことなど、それら情報環境の変化によって小屋や劇場での観客を相手にした場合にネックとなっていた声量の少なさをカバーできる上演環境が整ったことでタンカ、つまりフシの伴わない語りの部分に重心を移した演出が思い切ってできるようになったと言われています。それらの要因が複合して、あの一連の「次郎長伝」に代表されるような彼の上演・口演のかたちが人気を博するようになったのは、概ね昭和初年のことでした。*2

 浪花節といえば、まず声をまず潰すこと、そうして新たに作り直すことが浪曲師になる修行の第一歩だと言われ、厳冬下の海の荒波に向かってひたすら声を出したりした、といった挿話の類もこれまで多く伝えられています。生身の発する肉声をある一定の方向に「変形」させてゆくための身体的訓練の過程。実際、「うなる」と表現されるあの独特なダミ声の響きこそが浪花節浪花節たる存在証明になっていた。それは単に声の調子や音色だけでなく、ナマの上演においてある程度までの「数」を伴う観客をその場に巻き込んでゆけるだけの物理的な声量も同時に必要だったという理由もあったようです。このあたり、魚屋や八百屋などある種の商人の口上における独特な売り声の作られ方と、ダミ声、銅鑼声、胴間声、破れ声、甲(かん)声、など「声」に対する各種の民俗語彙的な表現なども含めて、「市場」的な拡がりと内実を持つ等身大を越えてゆく「場」に向かって効果的に響いてゆける声と耳の関係についての歴史民俗的な文脈での経緯来歴などにもどこかでつながってゆく、例によって懐の深い問いになり得ます。

 一方、電気録音を可能にしたマイクロフォンとアンプを介した増幅技術によって、その場に広く音声を届けることのできるシステム――パブリックアドレス、いわゆるPAにあたる拡声装置も誕生しました。これもそのような不特定多数の人間たちが一定以上の「数」で群れ集っている、たとえば駅や空港といった「公共」の場での効率的な情報伝達を目的として考えられ実用化されたものですが、それ以前は生身の肉声で「場」を巻き込める範囲には当然、およその上限があった。芝居や声楽、オペラなどもそうですが、上演の形態や種類による違いがあるとは言え、浪曲の場合には、鍛えた声を駆使できる一流どころなら概ね数千人から一万人ほどの観衆を相手にしても十分に満足させる程度の口演が可能だったと言われています。

 とは言え、天井にピアノ線を複数張って、舞台から客席の奥に向かってその共鳴を利用して声を響かせるように工夫した、といった挿話も同時に伝えられている。これはつまり、かの桃中軒雲右衛門の登場以降、国民的規模での人気を博す芸能商品となることで、興行としての論理で規模拡大の要求が生まれ、それに伴い上演場所も芝居小屋や寄席程度の手にあった大きさから公共の会館や公会堂、時には大劇場規模のハコにまでなっていったので、それに対応してできる限り多くの聴衆に声を響かせ届かせねばならない興行上の現実的な必要から、それら上演の現場での手仕事的な創意工夫も促されていったということでしょう。生身の身体を介した上演によってカバーできる眼前の「数」としての聴衆の規模の拡大、つまり「大衆」的な〈いま・ここ〉の現実に対して自ら身体を張って対応してきていたという意味においても、浪花節はそのような「近代」というたてつけにおける大衆芸能――平岡正明のもの言いを借りれば民衆芸術の、そのとば口に立っていたことになります。

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 そのように雲右衛門から虎造にかけて、ざっくり30年ばかりの間に否応なく「近代」の最前面に身を置くことになった浪花節において、フシとタンカが分離していったらしい。その過程は、前回触れたような散文的な表現の、殊に読みもの文芸において「会話」と「地の文」がそれぞれ分離してゆきつつあらためて再編制される文体が整ってゆくことで何らか奥行きや遠近、落差といった三次元的な位相を伴った言わば映像的な情景が読み手の身の裡に想起されやすくなりそれまでと異なる〈リアル〉を宿してゆけるようになっていったこと、そして同時にそれを「読む」リテラシーを実装していった世間一般その他おおぜいが新たな「読み手」となり「聴衆」「観客」となり、結果的に受け身の被操作対象でもあるような「消費者」としての大衆へと再編制されていったこととも、どこかで広く関連してくる同時代的な過程でした。

 それは、近世以来の本邦の舞台表現において広く見られる地方(ぢかた)と立方(たちかた)、それこそ文楽における浄瑠璃と人形、歌舞伎の下座音楽と演じる本舞台や花道での所作、あるいは無声映画の上映における説明の弁士と映し出される映像などの関係にも敷衍して考えてゆける、情報環境とそれに伴って宿り、現前してくる〈リアル〉の連続的な過程に対する射程の大きな補助線にもなり得るものでしょう。

 眼を介して「見る」ことのできる「動き」を伴う眼前の現実を、より〈リアル〉に受け取り意味づけられるようにするための「聴く」の効果。それが言葉による語りであったり、音曲であったりの違いはあっても、それら「眼」と「耳」を介した情報が共に手を取り合いながら、「上演」はその場にいる観客の身の裡により深く響いてゆける〈まるごと〉の依代になってゆく。

 浪花節においても、曲師が傍にいて演者の語りをアシストしながら、時に煽りながらドライヴして上演全体のグルーヴを生み出してゆく仕組みになっています。もちろん、浪花「節」であり、浪「曲」ですから、本質はフシである、という認識はあらかじめあったものなのでしょうし、それがそのままここでずっとこだわっているような意味での「うた」であるかどうか、それもまた立ち止まっての腑分けが必要になってくる話でもある。ただ、重要なことは、それは少なくとも声や調子、リズムやメロディーなどにあたる部分と共に、言葉による語りまでもひっくるめた、総体としての上演の〈まるごと〉について言われていたものではあったらしい、という一点です。つまり、浪花節におけるフシとタンカというのは、その程度にはどちらも「音」であり「声」であり、また「曲」でもあった。だからこそ、同じ語りものとされてはいても、講談その他の従来の語りものに比べて、直面させられた「近代」的な環境における突破力においてケタ違いではあった、ということです。

 かつて明治末年から大正にかけて、あの雲右衛門がみるみるうちに天下の人気をさらって風雲児となってゆく過程での、その上演に対する評言に「七色の声」という言い方が半ば定型のようにされていました。他に適当な言い表し方がなかったのか、また、その「七色」という表現自体も当時「あたらしい女」たちが嗜んだともてはやされた「七色の酒」のようにその時代の刻印でもあったのか、何にせよそういうもの言いが当時の新聞その他の評言に共通してあらわれている。それがまさに彼という「個」に属するフシの特徴として認識されてたことも含めて、その「七色の声」で繰り出される語りは、すでに〈まるごと〉としての「音」であり「声」であり、また「曲」として当時のその他おおぜいの耳に平等に響いていました。

 逆に言えば、雲右衛門にはまだタンカそのものの魅力は宿っていなかった。少なくとも、後の虎造などのようにくっきりとしたタンカ部分の際立ち方を、彼の上演はまだしていません。残された録音を聴いても、その地の底から響いてくるような「うなり」的な声調の異様な力は感じられても、それこそ「会話」と「地の文」が虎造節のように明確に分離しているようには聴き取れない。当時の聴衆の側もそのように聞いてはおらず、またそれを雲右衛門の上演における魅力の核心などとも思っていなかったでしょう。そのへん、雲右衛門による「革命」で現前した浪花節と、後の虎造が席巻した時代におけるそれとは、極端に言えばすでに別物だったと言ってもいいかもしれません。あたかも明治期硯友社流の文学と昭和初期の大衆文学とが、同じ読みものとして全く異なる肌ざわりなのと同じように。

 雲右衛門はあらかじめ「書かれた」台本を使った上演を行った、つまり文字によって「書く」ことでできあがった「作品」を「読む」という形態を積極的に取り入れました。彼の十八番となった「義士銘々伝」は、もとは福本日南などの漢文脈のリテラシーを持ち、かつて武士階級だった当時のインテリ層――九州は玄洋社の周辺に蟠踞していた人脈に宮崎滔天を介してつながった結果ですが、彼らが台本として創ったもので、それを雲右衛門が自身の生身を介して浪花節の脈絡に流し込んで上演につなげた。それはその台本を朗読するのでなく、朗詠するのでもなく、まさに浪花節の新しい「フシ」に乗せて「読み」かつ「うたう」ことをやってのけたという意味での、〈いま・ここ〉の〈まるごと〉でした。

 その〈まるごと〉に邂逅した彼ら、荒れ狂い始めた「近代」のその切羽にうっかりと身を置くめぐりあわせになった当時のその他おおぜいは、その「フシ」にこそ、まず素直に感応した。加えて、総髪に羽織袴、小屋の高座でなくテーブル掛けや幟その他を大仰に並べて飾り立てた目新しい舞台のしつらえなど、とにかくもっともらしく威厳を保つ見てくれの上に、口演自体冒頭から「不弁!」と一喝して語り始めるというスタイルは、それまで「ご入来」と嘲られていたような自己卑下満載の前口上的な部分を初手から全部端折った意表をつくもの。これから口演するのはこれまでのようなチョンガレ、浮かれ節の大道芸、乞食芸ではないから心して聴くがいい、という態度を前面に出した、まあハッタリ気分全力の塊だったわけですが、それがまたカッコいい、といったような次第で、当時、日露戦争とその後の世間一般その他おおぜいの気分の高揚に見事に同調、スパークして、彼の名はみるみる大きなものになってゆきました。*3

 そのような高揚、興奮というのは、同じ19世紀末から20世紀にかけての時期に輪郭を整えていったとされるアメリカのブルースがブルースになってゆく過程で獲得していった同時代的な共感や共鳴ともある意味パラレルな、「近代」との抜き差しならない関係の上に宿った民衆芸術としての栄光だったと思っています。このへん、折り目正しい身ぶりに過剰に忠誠を誓うばかりになった学術研究の世間とは全く別の、かつての正岡容から平岡正明朝倉喬司といった野育ちの先達たちの系譜が残してくれた一連の仕事の恩恵なのですが、近代化に伴い、必然的に生み出されてきた土地や係累など「逃げられない関係」から引き剥がされて心ならずも流浪せざるを得なくなってゆく、いわゆる流民・雑民的な心性が新たな表現の形式を期せずして獲得していった、そういうゆるい大風呂敷な背景をひとつ大きなホリゾント幕のように時代の背後に広げてみると、なるほどどちらも同じ、情報環境も含めた生産関係の変貌と技術的な下部構造に規定されて転変してゆく社会のありよう、つまりは「近代」に伴って晶出されてきた「うた」であり、それは同時に必然的に世界性をもはらんだものである、といった、今となっては無駄に大風呂敷でクラシックでほとんど時代錯誤にさえ思えるかも知れない認識でさえも、未だ案外素朴に宿ってくるものだったりします。

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 「浪花節が定型を築くことができないほど個性的なものであり、その特性ともいふべき強引な発声法が伝統をまもるために不適当であるといふだけではなく、どのやうな時代的環境にも適応することのできる安易さが、型を崩すことによつて、絶えずあたらしい魅力の対象とならねばならぬといふ宿命をもつてゐるところに重大な原因がある。浪花節が俗間にもてはやされ、庶民の生活感情につながりをもつのもそれがためであるが、これほど真似をするのも容易なものはなく、これほど自由な節廻しの変化によって組み立てられてゐるものも尠い。」

 尾崎士郎です。「人生劇場」で一世を風靡した、大衆小説と呼ばれ始めていたような読みもの文芸の市場で成功を収めることができるようになった、その最初の頃の代表格であり、戦後は公職追放を敢えて甘んじて受けたのち、「ホーデン侍従」などでなお、中間小説の第一人者のひとりとして名を残した、これまた今や時代錯誤にしか見えなくなっているらしい骨太な書き手。

 相撲狂で知られ、仲間を集めて相撲大会を開いていたという馬込の「空想部落」時代の挿話だけでなく、「文壇ゴシップ的認識において唯一の浪花節ファンといふ折紙をつけられている私」と自認するほどの浪花節贔屓の彼ですが、「少年時代に田舎廻りの浪花節を聴いた以外には、戦争前、大政翼賛会の文化部が「新体制」の宣伝のために文壇作家の作品をとりあげて、その頃一流と称せられた大浪曲家をあつめ、歌舞伎座(だつたか帝国劇場だつたかよくおぼえてゐないが)で大会を開いたときに聴いたのが最後である」と白状しているあたりは、寄席通いから病膏肓、自ら落語家に入門して落下傘の紋のついた羽織を着て高座にあがり、さらには浪花節にまでも入れあげた揚句、『日本浪曲史』『雲右衛門以後』といった今となっては自身の仕事としては各種の創作よりも評価されているフシのある研究書まで結果的にものすることになった正岡容などに比べると、良くも悪くも通り一遍の文人的旦那気質ゆえ、という印象は否めません。ただそれでも、あるいはだからこそ、「近代」の民衆芸術としての浪花節の通俗で大衆的な芸能の本質の部分にだけきっちり鋭く合焦して、それはどこまでも演者独自の「個」の表現であり、だから師匠と弟子といったそれまでの本邦の芸能一般に通例だったような「型」を介した「芸」の継承というたてつけが成立たなかったことも簡潔に見抜き、指摘しています。

 「市井の浪花節愛好者が、うろ覚えの節を腹いつぱいの銅鑼声でうたひだすときどさへ、ひとふしだけは模倣を絶した妙味が自然にあふれだすもので、豊かな才能に恵まれた男が、この「ひとふし」に執着して独自の形式を完成すると、たちまちにして一流の教祖になり得るところに浪花節の秘密がある。」

「そのやうな盛衰の激しさの中に彷徨しつつある浪花節が、ありとあらゆる声曲の要素を節調の中にとり入れようとするのは当然のことであり、特に最近の浪花節を聴いてゐると、浄瑠璃があり、薩摩琵琶があり、小唄や流行歌までがサワリのひと節の中に混入されてゐる。」

 素人が「これなら自分にもできる」とうっかり思って腰を上げる「ひとふし」ゆえの魅力。*4 大方の本邦の芸事につきまとっていた「型」や「格式」といった縛りも、実はほとんどなく、だからその場の聴衆や観客に「ウケる」ためならどんな要素も何でもありにとりいれてゆけて、それら無手勝流で人それぞれの流儀頼りにひとかどの者になりあがれる可能性がそこに開かれているように見えた、その本質的に「個」の表現として公認され得るフシの魅力。フシだけではない、タンカにおいても同様だ、と彼は続けています。

「節調だけでなく、一流浪曲家の歌詞の中でも、人口に親しまれてゐる文句には明治時代に流行した新体詩をそのまま借用したものが多く、中には俳句があり和歌があり、雑然混沌たるあひだに一つのリズムをつくりあげてゆく技術の逞しさは、自由奔放を通りすぎて放縦無碍といふべきではあるが、しかし基調となるものは低俗で野放図な浪花節独自の用語法である。」(尾崎士郎『酔中一家言』1956年、講談社

 つまり、何でもありのフリーダム。何をどう引っ張ってきて、引用して、どんな要素をコラージュして切り貼りしようが、すべてが浪花節として成立する。このような浪花節としての表現話法や文法の無教養な「自由」は、おそらく雲右衛門が期せずして道を拓いたものだったかもしれない。それなりの文字のリテラシーを持った書き手による「台本」をあらかじめ持ったことで、そのいかめしい漢文脈の文語調の文体がそのままフシに載せられて上演された。それによって、文章としてでなく、本来の文脈を無視した断片の言葉や言い回しなどが単に形としてだけ、フシに乗ってうまく響くような部分においてのみ耳に残ってゆくようになる。要は「それっぽく耳に響く」ことができればいい、という素人ならではのその場しのぎな理解の仕方と、その結果許容されてしまう雑然かつ混沌としたわけのわからない活力の発露に裏打ちされた、あらゆる約束ごとを「かたちだけ」なぞってゆくことからうっかり生まれてもしまう創作としての本質。何となくカッコよく、理屈抜きにココロに響く、ということにだけ特化したかのようなそれらのフシに乗せられた言葉や言い回しは、元の居場所や文脈がどのようなものであれ、現前したそれ自体がそのまま、上演の〈まるごと〉においてはこの上ない武器になったでしょう。*5

 洗練とか、そういうある方向に向かって上昇してゆくような契機はひとまず内包されていない。常に全方位全開放のまま、何でもありに貪欲にあらゆる要素を取り入れてゆく。その場、その時代の世間一般その他おおぜいの気分に根ざした眼前の観客の期待値に投ずることができればそれでよし――なるほど、これでは「形式」も「継承」も現場の上演において第一義になろうはずもない。通俗と言えばこれほどその語彙にふさわしいものはなかったでしょう。まただからこそ、インテリ知識人界隈には疎まれ、嫌われた。*6

 浪花節の話法の無教養をあげつらう時に各所で引き言にされていった、あの「壺坂霊験記」の一節、「夏とはいえど片田舎」を引き合いに出し、自分自身これを覚えようとして苦心惨憺、「文章術といふものを無視してゐる文句を体得することは尋常一様の仕事ではなかった。私たちの習得した文章法の中には「夏とはいへど片田舎」なぞといふ無鉄砲な用語はどこにもないのである。」と言ったあと、「しかし、これをぢつとして聴いてゐると、浪花節のリズムに乗る文章としては正しく名調子といふべきもので、文法も文格もない一種得意な文章のみが浪花節を構成してゐる」と評価しています。歌詞、つまりタンカは文章ではない、フシとの併せ技で何らかの〈リアル〉を宿らせてゆく、そのための独特な言葉の系なのだ、と。


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 フシが全てであり、その下に言葉も言い回しも統御されていたものが、虎造に至ってはタンカの部分がフシから離脱し始めています。フシから解き放たれたタンカが、いわばセリフのやりとりとして提示されて、その間に説明が差し挟まれるという形式は、言わば耳で読む大衆小説のようなもの。とは言え、その間も曲師は三味線をかすめながら伴走しているわけで、気分としてはフシの調子が連続もしているという次第。そして隙あらばフシがグッと全面にせり出してこれる緊迫感を保ちつつ、山場にくると全力で全開、再びフシとタンカが合体したグルーヴに持ち込んで一気にキメにかかる――このあたりの呼吸が「サワリ」として人口に膾炙してゆきます。そこだけ「ひと節」うなる、それだけなら「自分にもできる」と思えてしまう親しみやすさ。*7

 だからこそ、こういう無惨な現前もまた、平然とあらわれる。

 「大政翼賛会が民衆宣伝の機関として浪花節を起用したとき、藤森成吉氏の作品(何であつたか忘れたが)を演じた春日井梅鶯が、当時新体制を説く近衛首相の言葉としてつたえられてゐた、一人の飽食暖衣をゆるさず、といふ言葉を大きく叫んでから、「近衛首相もいうたぢやないか」といふ節回しにうつると、聴衆のあひだに忍び笑ひが洩れ、演壇に立ってゐる梅鶯の顔にも何となく気恥ずかしいやうな表情のうかんだことをおぼえてゐる。」

 この場の光景について、だから浪速節は「民主主義や共産主義の政治的宣伝にはまつたく用をなさぬ娯楽的本能だけが身上なのである」と彼は評しているのですが、戦後になるといわゆる進歩的なインテリ、知識人の側から、非論理的な「義理人情」に根ざした戦前の価値観を肯定し、やくざや流れ者をひたすら称揚してきた、民主主義に根ざした今後の日本には必要のない「封建的」で「時代遅れ」な芸能である、といった、戦前ともまた違う文脈での無理解にさらされてもきた浪花節が、どれだけ本質的な意味で「個」の「自由闊達」に棹さすことのできる「民主的」な民衆芸術だったのか、そのフシとタンカの〈リアル〉に立ち止まってゆっくり焦点をあわせてみることすらできず、しようともしなかった「戦後」の進歩的知性とそれを囲い込んできた言語空間の考えなしもようやく、いまあらためて言語化される節目にさしかかっているようです。




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