

●
あらゆる批評、評論は「二次創作」だったりもする――前回連載の末尾で自分、どうやらうっかりととんでもないことを言っていたようです。
文字を「書く」ことというのが、あれこれ〈いま・ここ〉で自ら読み直しながらの手作業であるがゆえに備わってくるらしいある種の飛び道具性のようなものによって、〈いま・ここ〉で一方向に言い流してその場で放念してしまう「言う」よりもなお、あとになって当の本人自身がその書いたものをあらためて読み直しながらさらにたじろいだり驚いたりする、そんな後知恵至極なことも正直、ままあります。少なくとも自分にとっての「書く」は、そんなことばかりもうずっとやってきているような自覚がある。「書く」ことをしながら、自己言及や自省、留保、慚愧、後悔の類から、根拠のない勘違いや多幸感……などなど、何でもありに入り交じった〈いま・ここ〉を日々、のたうちながら生きてゆくしかない、まあ、そういう感覚はもうずいぶん前から、ずっとあり続けているのですが。
以前、この場を与えていただいてまだ間もない頃、もう4年以上前になりますか、「カバー」ということを糸口にあれこれ考えてみたこともありました。商品音楽における楽曲の「カバー」でしたが、でも、今にして考えてみれば、あれも「二次創作」ではあります。
「「カバー」というもの言いに対しては、その対極に「オリジナル」というものが想定されている。ある種の原点、基準としての「オリジナル」が確固として存在する、だからこそそれに対する「カバー」なわけだが、とは言え、それは少し前まであったような「ほんもの」と「にせもの」あるいは「コピー」といった、かのベンヤミン流の図式そのままで理解されていいようなものでもなくなっていることも、また確かなようだ。それが証拠に、最近ではそれら「カバー」もまた「オリジナル」である、少なくともそういう感覚で楽曲に接する楽しみ方も新たな音楽の消費のされ方として受け入れられてきているように見える。」(前記、拙稿より)
どのような形にせよ、「古典」「クラシック」として、ある準拠枠が厳然として維持されているような領域ならば基本的に同じこと、そこでは現在の演者・奏者による生身を介した解釈が常に加わりながら、さらに上演という変数も織り込んでの「二次創作」が日々続けられている。それは〈いま・ここ〉の上演であるがゆえに、観客との「関係」と「場」を介した相互作用も重なって、融通無碍極まりないナマものとしての要素も逃げられない宿命としてある。上演とは、そのようにナマものであるゆえに常に〈いま・ここ〉の社会的な位相に向かって開かれてもいて、そういう意味では同時代の「公共」のありようとも切断し得ないものでもあります。
とすれば、です。ここでうっかり引き出した「二次創作」の内実は、前提に想定されている「(一次)創作」、つまり「オリジナル」であり「独自」であるようなかけがえのないもの、そしてそれゆえ優越的かつ排他的に価値があるとされているものに比べて、「(一次)創作」との関係をあらかじめ背景の文脈として織り込まざるを得ない。だから、その「読み/読まれ方」も含めて上演的なものでもあらざるを得ず、必然的に「オリジナル」で「独自」で、といった属性に縛られて固定化させられることからも距離を置けるもの、ということになる。これは裏返しに言えば、ナマものの上演から離れて固定化され、動かないものになった瞬間からそのような「二次創作」は〈いま・ここ〉から乖離し、同時代の社会的な位相や「公共」からも距離を置かれてしまう存在にもなる――というわけで、このへん、贋作やニセモノ、コピーや複製などのありようから、いわゆる創作物と著作権の関係などにもとりとめなく連なってゆく話ではあるのでしょうが、いまは走り書きでピン止めして道行きの傍に置いておくにとどめておきます。

そう、「書く」とは、実は「読む」も同時に包摂しながら行われる〈いま・ここ〉の作業であり、その過程において上演的なものでもある。しかし、その過程は可視化されないし、外に向かってわかりやすく提示されることもない。なるほど、その程度には、個人的で内面的で、自意識に閉じた営みでもあります。
その結果として書かれたものはというと、紙であれ印刷物であれ、何らかの媒体に固定化され、その時点で動かない記述、記録になる。この時点では、書かれたものとそれを書いた書き手とは外見的に一対一対応、つまり「作品」と「作者」といった関係に紐つけられていることに一応、なっています。
けれども、それに対して「二次的」に関わってゆく「読む」という作業は、その媒体にさまざまに関わってゆくだろうそれぞれ個別具体の社会的背景を抱えた不特定多数の読み手はもとより、それを「一次的」に書いた「作者」本人でさえも、共に同じ地平、同じ位相から同時多発的に並行しておこなってゆく過程のひとつにしかならない。その意味では、書き手もまた、その書かれたものが固定化された瞬間から独自で唯一の存在ではいられなくなり、読み手という意味において同じ二次的な立場になる。それは、「読む」過程における「作者」の匿名化、名無しとしての読む主体の群体に織り込まれてゆくことに他なりません。
つまり、「一次」の「オリジナル」が準拠枠であり「原点」である、という考え方を前提にした以上、そのような「二次創作」――それが「創作」と言えるのかどうかはまた別の留保と問いの系が必要ですが、いずれにせよそれは、「オリジナル」ではないその「二次」という意味において、「読む」もそのような「二次創作」としての内実を必ずはらむ不特定多数の側に委ねられる〈いま・ここ〉に開かれた本質的に匿名であるような営みへと昇華されてゆく。
批評や評論といった営みというのも、そのように一次的に存在する(と想定される)対象に対する「読み」を二次的に発動してゆくことだとしたら、「オリジナル」に対する批評性を「読み」を介して〈いま・ここ〉に励起させてゆくことに他なりません。その結果「読みもの」として出力されてゆく書きものも、そのような批評性を内包している限りにおいて本質的に「二次創作」だということをひとまず前向きに認めてみましょう。
広義の批評や評論から「文学」「思想」なども含めた人文社会系の教養の、古本の干割れたグラシン紙のようにほろほろとほどけ散りつつあるその古臭くなったたてつけをもういちど闊達に〈いま・ここ〉に解き放って再生させてゆけるかもしれない、そんなあるべき歴史像の現在的回復にとって、それは案外役に立つ仮の足場になってくれるはずです。

●●
「中央公論は總合雑誌として權威をふるつていたが、編集者も讀者も、その雑誌の小説欄に重きをおいていたのであつた。政治問題、社會問題あるいは學術關係の問題につき、その道の學者、評論家の論文が掲載されることがあても、それが賣物になることはまれであつた。たまに文學評論みたいなものが載せられても、それは添え物として扱われ、原稿料も輕少であつた。雑誌讀者は、作りものであり、こしらえものである小説などを喜んで、時事問題、現實の社會の問題に關する檢討、批判に着目する興味はなかつたのか。まだそういう時事評論、社會評論を職業とする者もなかつた。(…)「改造」が出た時も、はじめは小説欄に力を入れて、文學作品を賣物にしようとしていた。それが、いつとなく社會状態が變化して、社會評論が雑誌の上でも幅をきかせるようになつたのは、雑誌としても劃期的の事件なのだ。」
読売新聞の記者として働いていたことのある大御所作家の、明治半ばから大正にかけての時期の回想から。当時、批評や評論は表看板の売り物にはならず、やはり「読みもの」こそが総合雑誌に対する市場からの要求であったようです。


「思想もつまりは流行物なのだが、明治末期から大正初期にかけては多數者がかぶれるような流行思想の動きはなかつた。文壇のなかでも眞劍に政治批評なんかする者はほとんどなかつた。(…)その當時、小説の原稿料は政治評論、社會評論なんかの原稿料よりもはるかに高かつたことによつても、評論價値を文壇人が感じていないことが推測されるのであつた。(…)中央公論、改造などのいわゆる總合雑誌が、狂熱的に社會評論を賣物にしだしたのは、戦争後の日本の成金時代、それから關東大地震後の混亂時代であつた。それらの雑誌社が、山川均とか、河上肇とか、大山郁夫とか、あるいは大杉栄とかの原稿を流行の小説作家の原稿よりもありがたがるような奇異な現象が起ったのを私は不思議にみていた。」(正宗白鳥『文壇五十年』、河出書房、1954年)
いわゆる「文壇」に属するとされていた書き手でない学者、思想家、社会運動家や労働運動家などの書いたものを、小説などと同じ「読みもの」として読む/読める読者たちが、それを可能にするリテラシーと共に、市場にその姿を輪郭確かに浮上させ始めます。
明治から大正にかけての時期、硯友社の我楽多文庫や文芸倶楽部から、鴎外周辺のしがらみ草紙やめざまし草、さらにスバルや文学界や早稲田文学、新思潮に白樺などなど、いずれ入り乱れて発刊された各種雑誌と、それらに依拠したそれぞれの寄稿者や同人らが派閥として活発にうごめき、個々の作家のゴシップやうわさを交えた派閥同士のやりとりやいざこざが「6号雑記」「雑報」的なたてつけで可視化されて、それら下世話な興味関心を増幅させて煽るようなことも含めて批評や評論という商品読みものの大事な味つけになっていたことは、文学史の教科書的な記述からでも容易にうかがえます。
そんな環境ですから、当時からそれなりに存在していた新聞記者や編集者などから「作家」になっていったような経緯の人がたは、いわゆる創作としての作品だけでなく、批評や評論的なものを書くことも割と自然に、抵抗なくできていたらしい。というか、「ものを書く」という上では創作と批評や評論との間にそれほどの違いがあるはずもなく、必要になれば、求められれば「売文」の一環として「書く」ものでした。「文壇」というもの言いも、そのような状況では普通にそれら「売文」の徒、狭い文学渡世の人がたの世間を意味する、いわば内輪の自称としての符牒のようなものだったらしい。
当時の読者、殊に若い世代が敢えて「文学」に興味を抱き、自ら何かを求めて読むようになっていった動機には、創作だけでなく批評や評論なども含めての、それらを活字の雑誌や書物として提示してくる向こう側にある、言わば「楽屋」の世間に関するそれら雑多な情報のさまざまに織りなす内輪感、身内の共同性や仲間意識の手ざわりといったものも、実は相当大きかったのではないか。そしてそれはそのもう少し後、当初は活動写真や映画から「スター」に、さらには流行歌を介して歌手に、つまりそれらが生きて活動している「芸能界」にあこがれ、でも「文学」に向かった同世代からは「ミーちゃんハーちゃん」などと呼ばれて軽侮されてもいた夢見がちなもうひとつの若い世代の自意識の傾きとも変わらないものだっただろう、と自分などは思っています。



「文学青年が月々の文学雑誌や総合雑誌に眼をこらすのは、いまも昔もかわりはない。文壇はそこにしかなかった。文壇に登場するということは、その雑誌のどれかに自分の書いたものが載るということであった。明治の終りから大正の初めのころには、一度自分の書いたものが商業的の雑誌にのれば、それで新進作家となり、新進評論家となった。」(青野季吉『文壇五十年』、筑摩書房、1957年)


●●●
「論壇」という言葉も、活字の媒体の上では、概ね明治半ば頃から散見されます。
ただ、当初そこに込められていたものには、「文壇」とは少し異なり、明治期を席巻した自己表現の新たな形式であった演説(ここは「演舌」という表記がより一層当時の気分です)、つまりはテーブル・スピーチの本邦らしい換骨奪胎的超訳とも言えるその上演の具体的なシーンにある、本来はテーブル(卓子)であるはずのものをこれまたなしくずしに大げさな演壇へと転換させたブツの、その具体的なイメージもまつわっていたようです。
同様に、当時は「論場」といった語も見られるように、それは活字を舞台とした仮構的な言語空間というよりも、実際の上演としての「演説」の現場のまるごとが心象風景としても前提として想定されていた気配を感じます。たとえば、ほぼ同じ時期に、路上の乞食芸のひとつでしかなかったちょぼくれ、ちょんがれがうかれ節、そして浪花節へといわ出世・転生してゆく過程で、あの「テーブル」と称するいかつい演台が登場し、相撲の化粧まわしかフラホ(大漁旗)のような「テーブル掛け」がつきものになっていったように、自由民権運動から壮士らの身ぶりなど一連の尖端的な世相風俗に触発されて何らか新たな自己表現の形式に蝟集し、増幅もさせられていった当時の同時代的な自意識のありようが結晶したあらわれの一端として、「壇」の語もまたそれらのうちに含まれていたはずです。




その「論壇」の内実が、商業ジャーナリズムの伸長に伴い、それらメディアを介した仮構的な言語空間としての意味あいの方へと横滑りしてゆき、ある種の業界的なつきあいの世間といったニュアンスを前景化させていったのは、やはり「文壇」の語に引っ張られてのことだったのではないか。実際、単なる語彙としては「論壇」よりも「文壇」の方がより早くから使い回されていたようですし、その「壇」の部分には、昨今新たな意味あいと共に日常のもの言いとして広まっている「界隈」の語にも近い、ある限られた利害関係によって成り立っている内輪や身内の半径、要は「業界」という意味あいが色濃くありました。いずれにせよ、そのように「論壇」もまた「文壇」と手に手を取って、互いにその引力の磁場から逃れようとしつつも、共に商業ジャーナリズムを介した商品「読みもの」としての 「文学」的なるもの、の骨組みをゆるく生成していった経緯があったということになります。




とは言え、そもそもの話。「文学」というのは実作だけでなく、「批評」「評論」「文明批評」的な領分も含めて、それらフリンジの部分も融通無碍に包摂していましたし、世間の側もまたそれをある時期までは「そういうもの」として受容していました。「文学」そのものがそうであったのと同じく、よき時代と情報環境とに下支えされた活字ベースの「教養」にそれなりに裏打ちされた人がたに「批評」「評論」「文明批評」の類も等しく担保されていた。もちろん、紙媒体としての本という商品が、それらを支えるたてつけのほぼ大部分であり得ていたことも共に、なのですが、それは書き手の側、商品としての読みものを生産する立場だけでなく、それらを消費する読み手の側も含めて、当時の言い方で言う「読書社会」の共同性に裏打ちされているものでした。「壇」であり「界隈」というものも、それら同時代の情報環境と結びついた共同性が背骨にあって初めて、〈いま・ここ〉の社会的な位相に膾炙できるようにもなってゆく。

それら読書人でもあるインテリ知識人たちの世間を自明に背景とした日常の雑感や好き放題な感想や印象でさえもが、それら活字中心の読み手という属性が浸透していった世間一般その他おおぜいにとっては、何らか世の中や社会のことをもっともらしく考える際の補助線になってゆきました。そこでは、それら書き手の実社会での属性や肩書きもすでに関係ない。作家でも評論家でも大学教授でも、いずれ「そういう立場」ということが担保されているなら、あとは適当な思いつきをどう垂れ流していようが、どこまでも「そういうもの」としてありがたく受容してもらえるという、メディア商売のルーティンの手癖との共犯構造が錬成されていったわけで、そうなるとその構造にどれだけうまく入り込めるか、入り込んで考えなしに「乗れる」かが、「文壇」「論壇」渡世の主な目的になってしまった。その上に「教養」ある「知識人」「文化人」としての「評論」「批評」屋の立ち位置が既得権益としてできあがり、そのような利権を飾るアイテムとして、「文学」的なるもの、もまた野放図に取り回されるようになってゆきました。テレビ主導で広まっていった「コメンテーター」というのは、そのさらになれの果て、自省も留保も忘れたまま流されてきた「文学」的なるものが自ら招いた煮崩れの、最終形態に他なりません。
人と社会、文化にまつわる領分――要は〈いま・ここ〉の現実、〈まるごと〉の現在とじかに関わらざるを得ない領域について、活字の文章とそれだけが中身であった紙の媒体だけをよすがに、生身の速度での「読む/書く」を上演として介しながら何らかの「わかる」へと向かうような手続きは、そういうやり方だけがまっとうで信頼し得るものであるという自明の常識や価値観ともども、すでにゆっくり後景に退きつつあります。