
民俗学の再生、ですか。そうですか。
もうずいぶん前から何度となく聞かされてきた、なつかしい子守歌のような気がします。
この国の民俗学の「再生」というのが果たしてどのようなかたちをとるのか。もっと言えば、そもそもその「再生」というのは何がどのような状態に立ち至ることを想定したもの言いなのか。そういう風に静かにほどいて考えてゆけば、ことはそうそう牧歌的なものでもなくなります。子守歌の響きにまどろみ続け、なつかしさに時の過ぎるのを忘れるために耄碌した腕で民俗学というもの言いだけを振り回すていたらくでは、そんなもの、もはや何の「再生」にもつながりません。

これまで、民俗学の「再生」が言揚げされようとする時には、柳田國男がそのダシに使われるのが常でした。
いつ、誰がそう決めたものかは知りません。どのような経緯でそういうことになっていったのかも定かではない。けれども、そういう文法で民俗学の「再生」を語ることが作法のようになり、その作法に従う限り「再生」の物語はある茫洋とした風景の中に溶かし込まれ、そして最後は心あたたまる名調子で完結することになっていました。
曰く、『明治大正史・世相編』に見られるような「世相解説の科学」の精神の復権を。曰く、本百姓としての常民という立場を再確認してムラの社会史を。曰く、山人への視線を持っていた初期柳田の志向に立ち戻って「異人」論の展開を。曰く、伝承という現われに改めて光を当てた口承文学研究からの活性化を。曰く……
柳田の書き残したものを不老不死の霊薬のように思い込んでは煎じ直し、そこで注ぎ出された常民色の汁をぐいとあおれば、民俗学の「再生」の物語は眼前の風景に紗幕をかけたまぼろしとしていつもかぐわしく立ち上がるものでした。で、どうしてその先具体的な再生の兆しが日々の実践として見えてこないのか、まぼろしに手ざわりが伴ってゆかないのか、そのことについての静かな反省というのはその「再生」の処方箋からはついに出てこないままです。

柳田をダシに民俗学の「再生」を説こうとするやり方に伴う決定的な欠陥のひとつは、現在の民俗学という制度が学問事業として果たしてどのような状態に立ち至っているかということについての冷静な認識を作動させなくするらしいことです。その程度にそれは実に見事なまぼろしの生産装置であり、「眼前の事実」の隠蔽をもたらす麻酔薬のようなものです。この柳田薬局伝統の処方箋の副作用は深刻です。
たとえば、専門的な研究者の養成というのは、どのような意味であれ、ある専門的な仕掛けが必要な事業です。そのための制度がどのように作動するのかまで含めて、それはかなりの程度組織的なものだったりします。理想というエンジンだけで事業としての学問は作動しない。エンジンが発生する駆動力を支えるシャーシを作らねばなりませんし、その力を現実という路面に伝えてゆく伝達系の整備も必要です。何よりも、理想をかたちにするための資金というガソリンだってなければいけない。それら事業としての学問を支え、作動させてゆく仕掛けの大部分が「大学」という制度にあらかじめ埋め込まれて存在してきた学問ならばともかく、それら全てを一から自前でやらざるを得なかった「野の学問」という出自を持つ以上、この国の民俗学が「再生」するということの内実のかなりの部分は、好むと好まざるとに関わらず、そのような事業としての学問の仕掛けとどうつきあってゆくのか、という目算を前提として描き出されるものでなければならないはずです。それなくして、ただの純朴で誠実な個人という立場だけで学問を云々することの悲喜劇が、これまでの民俗学の「再生」についての議論には抜き難くつきまとっています。

今のこの国の民俗学には、そのような専門的な研究者を養成する機関というのはきわめて少ない状態です。はっきり言いましょう。そのような機関が名目上存在していたとしても、それがどのように作動しているかというところまで踏み込んで考えれば、事態はほとんど絶望的です。
たとえば、多くの民俗学者たちが今、国立大学の門前に博士号をもらうために列をなしています。その大学には数少ない民俗学の専門教育のコースが設置され、制度としては民俗学のセンターになっていて、そして今、さまざまな思惑がらみで博士号を大盤振る舞いすることが大学院に要求され、そのような流れの中で内実をろくに問わない、問うための仕掛けもないままに博士号が乱発され始めています。その配給を受けるために彼らは従順に列に並んでいます。
今、この国の民俗学にとっての博士号。それが一体どんな意味を持つのか、どう同情ある眼つきで眺めても僕には理解できません。博士号一般が意味ないというのではない。学問の達成を計測する仕掛けがある確かさと共に構築されてきたような領域ならば、それは間違いなくある内実の伴ったものになっているはずです。また、個人の水準に限ってみれば、そのような肩書が自分の仕事の励みになるということだって現実にはあります。
しかし、今のこの国の民俗学のそのような制度の中で、しかもその「再生」がもう三十年も前から言われ続けていてほぼ何も実践につながっていない状況で、その博士号というのがどれだけの具体的な意義を持つものになるのか、そのことについての目算がまるで見えないということはまた別の問題です。何のための博士号、という冷静な問いが、それを乱発する側の者にも、また漠然と列に並ぶ者たちにも、共にあきれるほどないのです。


もっと脂っこい話もしましょう。ある指導的な立場にいる民俗学者のひとりは、大学での民俗学の専門課程など究極のところ博士号の発給機関で構わない、と言い放ちました。彼はこう続けます。地方の民俗学者がキャリアを積んで、たとえば何かのはずみで地元の大学の講師に招かれたりする、その時に博士号がないと不利になる、そのために博士号の発給機関は民俗学に必要なのだ、と。
それはそれでいい。今ある制度を使い回してゆく上ではそういう立場だって現実にはありだろう、と僕は思う。しかし、そのようにして大学の中に場所を獲得したとして、その先一体どんな目算が民俗学の未来にあるというのか。何より、半世紀以上前、柳田國男が思い描き、現実にものにしようとしていた学問の構想というのは、そんな選択の中に今、本当に宿り得るものなのだろうか。そのことについての説得力ある説明を不幸にして僕は未だ耳にしたことがありません。

民俗学の停滞というのは、別に柳田國男に立ち戻ってそれでどうにかなるものではもはやない。もっとミもフタもない構造に規定されているところだってあります。
こういうことです。世に「優秀な学生」というのがいます。何が「優秀」か、という議論をすればキリがなくなるのでここでは、いわゆる「優秀」、ということにしておきます。そのような学生がある量を伴って存在する、ひとまずそのことは認識できるでしょう。
しかし、教育現場としての大学がどんなに努力してもその生産量は限られています。そういう意味で「優秀な学生」というのは限りある資源です。その限りある資源をどのように分配してゆくか、というのが事業としての学問には常にからんできます。
もちろん、文科系の「優秀な学生」の多くが優秀であればあるほど大学になど残らず、企業や官庁に職を得てゆく現実というのは今や当たり前過ぎるほどに当たり前のことですし、いかに大学院への進学率が高まったと言ってもそれはそのような社会へ出てゆく彼らを除いた残余部分での数値に過ぎないかも知れない、という疑いはかなりリアルなものです。とは言え、仮りにその残余部分であれ、文科系の学問のそれぞれにも未だある一定量の「優秀な学生」が供給されているとして、しかしその「優秀な学生」の分捕り合戦の中
でさえ民俗学は決定的に遅れをとっています。とらざるを得ない構造が厳然とあります。
テレビやラジオが当たり前のようにそこにあり、誰もが平然と文字を読めるようになり、ことば本来の意味での「貧しさ」が眼の前からフェイドアウトしていった、そんな社会の中で社会化してきた意識にとって、これまでの民俗学が切り取ってきた世界はどんどん遠ざかってゆく車窓の風景のような現実でしかありません。そのことへの疑念は一方で、手もと足もとの現実に対する手ざわりがどんどん希薄になってゆくことへの自覚と相乗効果で、制度としての民俗学という枠組みの中で当たり前のように教えられることについての違和感を醸成します。事実、そのような違和感を抱く程度の知的鋭敏さを持っていることががまさにその「優秀」であることの最低条件であったりする。とすれば、そのような鋭敏さに乏しい学生ばかりが制度としての民俗学にうっかり引き寄せられてゆくという難儀だって、今や平然とあります。高校の社会科教育のカリキュラムに組み込まれた民俗学まわりの意匠をあらかじめインプットされた学生が、大学にやってきてどれだけ自閉したもの言いに苛まれているかは、大学で民俗学を教える現場にいる者にとっては常識です。そんな状況があり、なおその中で敢えて民俗学へ近寄ろうとする者が果たしてどのような質の知性であるか、そのことをまず認識しなければ、研究者養成もヘチマもありません。


大学なんか関係ない、地方の篤志家のような堅実な在野の民俗学徒がこれまでもたくさんいたじゃないか、そして彼らの地道な仕事が民俗学の底辺を支えてきたじゃないか、という意見もあります。歴史的に見てそれはかなりの程度正当です。事実、そのような蓄積がこの国の民俗学の「野の学問」としての誇りでもあります。
しかし、今や地方の民俗学会や研究会の多くは会員の高齢化に悩んでいます。かつてならば高校の教員や地元の郷土史家といった人々が組織の中核になり得たものが、今どきの中学や高校の現場はそんな教員個人の「趣味」を許容するほど牧歌的なものでもなくなっていますし、また、若い世代の彼らもまた「現在」から疎外されていることにおいては都市の学生と選ぶところはないわけで、いずれにしても地方の現実においてさえ、もはや民俗学は敢えて手を染めるに足る魅力ある事業などではありません。

というわけで、民俗学にとっての「現在」は継子のように放り出されたままです。
柳田國男への“お約束”の本卦帰りによって何か民俗学の「再生」があり得ると考えること自体、もはや民話の範疇のあらわれでしかないことは、そのような「再生」の実践がもともと宿るはずの手もと足もとの「現在」が空洞化したままであることからして明らかです。
最近、近世史など歴史学方面からの新たな風として、民俗学まわりがこれまで蓄積した素材を歴史学の水準で利用可能な形に編み直してゆくことが提唱され、そのための具体的な動きもそろそろ始まっています。ははあ、かつて民間伝承の会で想定された標準的な組織構成員である「小学校の教員」というのは、大衆社会化が高度に進んだ現在、博物館の学芸員に横滑りするわけだな、などという可愛いげのない詮索はひとまずおいておきましょう。総論として言えばそれは間違いなく必要な作業です。資料をきちんと資料としてゆ
く、そのために地道に手をかけてゆく作業すら民俗学は怠ってきたわけですから、そのような作業を少しずつ進める、そのことは正当だと思います。中世史から近世史、とりわけ村落社会の社会史的研究といった方向について、それらの資料を介して民俗学はまだ寄与できる部分があるとさえ思う。
しかし、と僕は口ごもります。同時にまた、手もと足もとの「現在」の変貌のリアリティをつぶさにすくいとってゆく仕掛けという可能性も、この国の民俗学にはあったはずです。


「あるく・みる・きく」という言葉があります。これに「書く」を加えて、民俗学的知性の基本的な態度と言ってもいい。それ自体としては素敵なもの言いです。けれども、昭和初年、柳田が民間伝承の会を組織してそのような「あるく・みる・きく」を奨励していった時のような情報環境は、今やもうどこにもない。新聞社の支局の体制、放送局の体制、その他雑誌や放送、ありとあらゆる複製技術に支えられたメディアの網の目が作り出す「現在」の仕掛けは、たかだか個人の篤志家とその倶楽部的集まりが旅をして拾い上げてこれるような素材、データなど吹き飛ばすような量と速度とで回転を続けています。「現地調査」や「フィールド・ワーク」という仕掛けの有効性を単なるもの言いとしてでなく真摯に問うならば、そのような「調査」があり得る社会的文脈から考慮しなければならないはずですし、それをしないですんでいるとしたら、それは現在の切羽で人と社会にまつわる学問がたかだかその程度のものでしかなくなっているということに他なりません。
記録化、資料化のためだけに学問が切り縮められ、将来の研究者の利便を考えた環境整備の事業だけに限定されてゆくようなものならば、眼の前の「現在」は、そして他でもないその「現在」の中に生身を抱えつつ生きるしかない僕たちというものは、永遠に学問から放り出されたままになる。自分たちが見たり聞いたり感じたりしてきたある現実の水準を、それまでの民俗学がある部分そのようにあろうとしてきたように、「歴史」の水準へと繰り込んでゆこうとする、その可能性は今、ほとんど閉塞してしまっています。けれど
も、文字によって書きとめられたもの以外の系列の資料もまた現実に存在することが厖大に「発見」され、そしてそれぞれに高密度の蓄積を行なうようになってきた近代の過程を、生身でどれだけ大股に渉猟してゆけるか、その愉快の方にも、今ある民俗学とは違うあるべき民俗学ならばまた仮託できる、そのことを信じたいのです。


とは言え、このように毒づき、言いつのってはみても、それでも民俗学は注目されていたりします。学部の頃から幸せな研究室体制の中で育てられ、それに見合った能力の発揮も充分にしてきた同世代の研究者の中には、民俗学まわりのこのような現われ自体を素材にして優れた思想史、精神史の地平を発見している者もいます。
でも、やはり彼らには帰るところがある。そこがどのような場所であれ、最終的に身を落ち着かせる場所が制度としての学問の中にある。そのことの違いというのは、案外に大きいものだと近ごろ改めて思います。世界をわかりたいようにわかり尽くしてゆく、そのためにはどんな手段だってありなのだ、とうそぶいてみても、そしてそのことに同調してくれる同時代も少しずつ現われてきてはいても、民俗学という場に固有の難儀は自前でことばにし、ほどいてゆくしかないのです。「現在」に輪郭を与えてゆくための手練手管としての「あるく・みる・きく」は未だ確かに有効だとしても、それはたとえば、「豊かさ」にあぐらをかいて何の目算もなく国境を越えてしまう「国際化」バカの不用意にまで切り縮められたりします。その一方では、相対的に鈍重な文字の学問などよりはるかに能率的に情報を検索し、組み直し、新たな現実を発見してゆく手練手管を身につけた個人や組織が、大学や大学に象徴されるそれら学問の場の向こう側にいくつも立ち現われ始めています。そう考えれば、ことはひとり民俗学だけの問題ではない。にしても、やはりひとまず民俗学の問題として言うしかない自分というものがある以上、その「再生」は柳田國男との切断を方法的に行なった上でのことでしかないだろうと思います。
どうしてそんなに民俗学に期待するのか、とよく言われます。学問そのものに対する幻想が過ぎるのではないか、と言われることもあります。そうかも知れません。しかしそれでも、柳田が『青年と学問』で語っていたような意味での人と社会についての学問への志というのは、今、このような状況だからこそ必要だと強く思います。それが今ある制度としての民俗学にそのままつながることはおそらく難しいように思いますし、また無理につなげようとする必要もない。ただ、そんな来たるべき学問がどんなかたちをとるにせよ、少なくともどこかで「自分」と切り結ぶことがない限り僕は納得しない。「自分」がわかるということ。「自分」がいま・ここにいることについてすとんと腑に落ちるように何かが晴れること。そのための学問でなければ僕は加担しない。それは確かに断言できます。
ですから、柳田國男を論じることはこの先も必要だと思っています。彼を論じる作法そのものもまたすでにある歴史を伴った不自由の中にあるかも知れないということも含めて、まだまだその可能性は存分に食い尽されてはいないとすら思います。ただ、それが今ある制度としての民俗学の「再生」に無媒介につながるなどという欲どしい、ありていに言って考えなしの態度は、もういい加減にやめにしませんか。柳田國男は別に制度としての民俗学と不可分のものでもありませんし、まして、今のこのようになってしまった民俗学の現在と直接関連を持つべきものでもないはずです。