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「スポーツライター」になりたい、という学生によく出会う。
いや、学生だけでもない。おおむね三〇代前半から下のもの書き稼業の連中に出会うと、差し出された名刺の肩にこの「スポーツライター」だの「ターフライター」といった目新しいカタカナが刷り込まれていることも多い。
僕はおめでたいところがあって、ただでさえ何かものを書きたいという人間が少なくなっていそうな昨今、それが小説であれ、ルポルタージュであれ、詩であれ、随筆であれ、はたまた何と名づけていいのか戸惑うような“自称コラム”であれ、いずれ文字で現実を切り取ろうと思うそのこと自体が今や貴重なようなものだから、将来へ向けての抱負とまで大上段に振りかぶらなくても、たとえばちょっとした苦労話とでも言うような水準でいい、仕事の領分は違っていても同じこの時代を泳ぐもの書き稼業の身、何か話ができないものかとつい思ってしまう。だから、そんな彼らに行き会う機会があれば、これも耳学問とコーヒーの一杯もすすりながら、なるべくゆっくり言葉を交わすようにしている。
ひと口に「スポーツライター」と言うけれども、彼らは漠然と「スポーツ」と言っているわけではない。多くの場合、何かそれぞれに想い傾ける種目が具体的にあるのだ。野球はもちろん、ラグビーやサッカー、時にボクシングや相撲やプロレスといった格闘技方面まで、そこではスポーツ新聞の紙面を華やかに飾る種目のほとんどがあげられる。また、そのあげる種目に応じた書き手の性格の違いなどもあって、それはそれでなかなか面白い。 そんな彼らの中でも、競馬は人気の焦点になっている。実際、競馬まわりはここ数年のブームで市場が一挙に拡大し、JRA自身の『優駿』の他に複数の隔月専門誌が並立できるようになっているのを始め、その他の一般メディアにおいても「競馬」を素材にした原稿の需要は、ブームが一段落した今も結構高い。
だから、そんな競馬指向の彼らは、まずスポーツ紙か専門紙のトラックマンになるか、でなければ、そのように増えた競馬まわりのメディアに出入りして仕事をすることを目指す。そして、そこからいずれ一枚看板の競馬記者、競馬評論家、あるいは「ターフライター」として、固有名詞で競馬を語る日を夢見る。
それはいい。今のこの国で原稿を書き、それ一本でメシを食うことの困難は、僕のような大学で給料もらう立場の人間でも思い知っている。それに、地に足つかない漠然とした未来ばかりをのべたらに刺激してきたここ十年あまりのことを思えば、そのような具体的な過程として自分の夢を設定できることは、ひとまず悪いことではない。
だが、そのように夢を語り、その夢の脈絡で競馬を語る彼らのその構えは、どこかのっぺりとしている。その大型家電製品の白さのようなあっけらかんをうまくことばにするのは難しいが、たとえば生身の現実に秘められた「力」の水準に対する感覚や想像力といったものがきれいに抜け落ちている、そんな印象なのだ。
時速百四十キロ以上の速球を二十数メートル離れた場所にあるミットめがけて投げ込む男がいて、それをまた一キロ足らずのバットでひっぱたいて百数十メートルも飛ばす男がいる。あるいは、五百キロからある大きな生きものにまたがり、生きものの激しさで揺れ動くその背中を膝から下ではさみ込んでバランスをとりながら時速六〇キロからの速度で駆り立て、しかも数十秒から時に数分間にわたって追い詰めに追ってくる腕っぷしを持った男がいる。そんな生身の人間が眼の前にいて、しかも活きて躍動していて、彼らがそれぞれおのれの身体を駆使してゆくことで引きずり出す現実があって、というそのまるごとの現場に対するまずはあきれて口あけるしかない感覚と、その次の瞬間に訪れるふくらむような愉快。語源的なことは知らないが、「スポーツ」というもの言いの背後には、そんな生身の現実に対する変形の過程にそれを可能にする「力」と共に主体的に関与できる立場にある者の誇りと情熱が、そしてそんな彼らへの尊敬の作法が、ある歴史性を伴って織り込まれているはずだ、と僕は思う。
だとしたら、煙草銭程度の小銭と引き換えにコンビニで手に入れた新聞を広げ、いがらっぽい場外で馬券を買うだけのことが、どうしてスポーツなどであるものか。競馬がスポーツだと言い得るのは、調教師であり馬主であり騎手であり厩務員であり、まずはそんな生身の馬の変形の過程に具体的に関与し得る立場の人間たちだけだ。「見るスポーツ」というもの言いはもちろんあり得るけれども、しかし、それはこのような最も初発の文脈でのスポーツとはまた別のものだ。

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だが、寺山修司は、その「見る」ということから一点突破をかけた。
「見る」ことしかできない、そのようなスポーツ本来の当事者の位置から徹底的に疎外された〈その他大勢〉の立場から、その〈その他大勢〉を前提にしたスポーツのあり方を、彼は本気で考えようとした。「スポーツ」というもの言いに見合うような創造を、それまであたりまえに想定されていたような「個」を軸にしてではなく、たとえある局面ではそのような「個」であったとしても同時に誰もが新たに自覚せざるを得なくなった〈その他大勢〉という姿勢のままで、実現させようとした。それは、どう頑張ったところであらゆる関係に対してそのような〈その他大勢〉でしかあり得ない大衆社会下の「個」の生の実現の可能性についての、まさに「鉛筆無宿」の立場からの実践であり提言だった。
〈その他大勢〉がその〈その他大勢〉のまま宿してしまう不定形の想いを、ある条件の下で確実に吸い上げ、濃縮し醗酵させた後に、再び彼らの方へと投げ返す。そんなマス・イベント、マス・カルチュアの、物語をつむぎ出してゆく力と仕掛けのなまめかしさこそが、詩人である彼が、競馬に限らず野球や競輪やボクシングといった“見せることを前提にしたスポーツ”に傾いていった最大の魅力だったはずだ。
「レース前の馬は、いわばただのけだものである。けだものたちは、故郷を記憶する。けだものたちは、それぞれの違った運を持ち合わせている。しかし――ゲートがあいた瞬間に、馬はことばに変わり、思考を表わし、バランス、旋回軸、支点を持って一篇の詩を構成しはじめる。一行のフレーズが、他のフレーズの母となるように、一頭の脚質が他の馬の展開に座標と系統を与える。そこには、あるさだまった枠組があり、走り出してしまった汽車のような酩酊がある。」(『暴力としての言語』)
彼は、競馬に詩を見ようとした。相対的にどんどん矮小になってゆく「個」と、その「個」がある仕掛けで連接しているはずの「社会」との間に横たわる関係を、競馬場の喧噪の中に凝縮した形で読み取ろうとした。厖大な群衆の中の「個」としての自分。その自分と、眼の前に繰り広げられるレースとの間のささやかな黙契。もちろん、公式には何の必然も見出だせないものにせよ、そのささやかなつながりに、〈その他大勢〉としての「個」の何かかけがえのない生の足場を、彼は見ようとした。
もう三十年近くも前のことだ。彼はこんなことも書いている。
「昭和三十年には百五十六万人だった中央競馬の入場者が、三十五年二百二十万人にふえ、三十九年には三百四十万人、四十年には四百二十万人に増えている。場外での馬券購入者を加えたら、増加率は一そうはげしくなる筈である。馬券の売上げ高が昭和三十年には百十億円であったが、三十五年には二百九十億、三十六年には三百七十億、三十七年には四百八十億、三十八年には五百三十億、さして三十九年には六百五十億だったが、一年後の四十年には八百六十億という型破りののび率を見せているのだ。」(「一時代一レースの思想」)
彼はこの数字を映画と比べ、「吉永小百合、石原裕次郎、勝新太郎などが束になっても、シンザンやキーストンの八分の一の売上高しかあげることが出来なくなってしまったという現状」を示して、ようやく大衆化への上げ潮に乗り始めた競馬を新たな語りに組織し、発見してゆく。昭和三十年代初めを頂点にその後急坂を転げ落ちるように動員数が減ってゆき、あっという間に「斜陽」と言われるようになった映画に対して、確かに競馬は昇り坂だった。この時期、売り上げの中に占める場外馬券の比率も急上昇し、六十年代末にはついに場内での売り上げを逆転するようになる。一頭の競走馬が『少年マガジン』の表紙を飾るまでになったハイセイコー神話の疾風怒涛はその直後のことだ。その急激な変貌の中、寺山的な競馬の語りもまた、〈その他大勢〉の意識に広く根をおろしていった。


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しかし、事態は彼の思惑をはるかに越えてその後も進展していった。今や中央競馬は売り上げ三兆円、年間入場者****人というところにまで来てしまった。寺山が〈その他大勢〉の娯楽としての競馬の優勢を宣言した時点から三十年ほどの間に、売り上げにして五十倍以上、入場者にして**倍というとほうもない達成が、今、眼の前のものとして放り出されている。
かつて、寺山修司がその語り方を発見し、つむぎ出していった競馬という現実は、その後の過程で、彼がその当初構想していたはずのものとは、およそ似ても似つかない別のものになってしまった。その別のものになってしまった競馬について、果たしてどのような評価を与えればいいか、僕はまだわからない。わからないが、しかしそれでも、こんなとほうもない現実にとりとめなさを抱いて競馬に向かい合わねばならなくなったことは、やはり切ないことだ。寺山は大好きだった吉永正人とミスターシービーの三冠を見届けることなく逝ったが、それからわずか十年あまりの間に、この国の競馬がどれだけひん曲げられていったことかを思えば、それは彼にとっては幸せなことだったかも知れない。
ふりむくと
一人の少年工が立っている
彼はハイセイコーが勝つたび
うれしくて
カレーライスを三杯も食べた
狙いすましたショットで場(シーン)を切り取って、「個」としての〈その他大勢〉の輪郭を素描し、そしてそれらを重ね焼きすることである物語の方へと昇華してゆくこのやり口は、寺山が好きだった頃のこの国の競馬の現実に正面から対応するものだった。*2

寺山の語る競馬に誘われることは、そんな語りの磁場に競馬を解釈しなおすことに他ならなかった。週末ごとの競馬と寺山の語りとの往復のうちに、「さらば、ハイセイコー」をそらで口ずさめるようになり、口ずさむたびあきれるほど不用意に涙ぐめる自分を知った。気持ちのいい夜には「勇者の故郷」をぼそぼそと声出して朗読することを覚え、土曜日になればトルコの桃ちゃんとスシ屋の政の思惑を気にして、自分の筋書きと一致していたりすれば誇らしくもあり、また悲しくもなった。なぜなら、そんな時の馬券はまず当たらないからだ。ちなみに、寺山が亡くなり、桃ちゃんも政も姿を消してから後は、そんなリトマス紙の役割を果たしてくれる競馬記者は清水成駿と佐藤洋一郎と塩崎利雄になった。寺山の語り口は彼の手を離れ、競馬の解釈の普遍的モードとして、文字の射程をはるかに越えた広い範囲にばらまかれていった。
ある単行本のあとがきに、彼はこんなことを書きとめている。
「私は長い間、綜合雑誌の論文――あの大学教授たちの悪文に反撥を感じ、同時に「書きことばの共和圏」が、知識階級だけを相手にしてゆく、思想の階級性といったものに反撥を感じてきた。一日に数回、おまんことかおさねといった言葉を口にし、水前寺清子の歌を口ずさみ、外れ馬券の思い出に熱中し、話しことばしか信じないような人たちにも「思想するチャンス」を与えてやりたい……彼らに話しかけることによって、彼らの目で私自身をとらえなおしてゆきたい、と思いつづけてきた。」
時代は異なっていても、僕もまた、知性のこのような種類の明朗さを信じて競馬場へ、そして厩舎へと赴いた一人だった。




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だが、その「彼ら」は今、どうしているのだろう。
担当だった高崎のスジもんのダンナの馬を大事にするあまり、馬が売られてゆくととたんに荒んで厩舎をしくじったトオルは、風呂に浮かべる健康機器のセールスマンになった。減量を苦にして利尿剤に手を出し、内蔵をこわして寝小便をするまでになったノリヤクのヒデは、故郷の牧場の片隅に寝起きしているらしい。岐阜や名古屋から見映えはせずとも競馬にしぶとい馬を連れてきては勝負していた馬喰のセンリョウは、間違いを起こして刑務所に入り向こう三年は出てこれないというし、年間五勝もできない厩舎で月に三度は競馬を使う腐れ馬の出走手当だけをあてに暮らしていた調教師のヨネさんは、ずっと通っていた医者でいつもの肝臓病の点滴を受けながら五分でくたばった。
いずれ“ろくでなし”の顔と姿で寝藁臭い厩舎の暗がりにたたずんでいたそんな「彼ら」は、今、語られるべき競馬の水準からは見えない場所に静かに去ってゆく。





だが、寺山的な競馬の語りが発動される仕掛けは、この先も確実に律動し続けるだろう。『優駿』を筆頭にしたメディアの舞台での競馬の語られ方は、一面で、そんな寺山的呪縛をそのものとして再生産してゆくようなものにもなっている。あらゆる現実があらかじめそのものとして組織されているように思えてしまい、そう思えてしまう分、「スポーツ」というきわめて単純化された枠組みの中でしか現実を語る欲望を駆り立てられなくなった状況では、すでにこれまで濃厚に蓄積され、組織され直してもきているそのような語りのモードは、そのままでは自覚することも難しいようなもうひとつの「自然」として意識の表層を覆い尽くしてゆく。
ならばよし。もう一度、僕は競馬場でただの「個」に過ぎないことに静かに対面することから始めるしかない。何十万人の〈その他大勢〉がこぶしを突き上げ同じ馬名のコールを繰り返すことが、〈その他大勢〉の文化としての競馬にとって果たして幸せなことかどうかを、他の誰でもない、その何十万人の「個」が〈その他大勢〉の立場の内側から考え、組織することをもうそろそろ始めねばならない。その馬が勝つたびうれしくてカレーライスを三杯も食べてしまった、そんな表現を実際可能にし、そしたまた語りの方もその可能性を抱きとめることのできるような「力」を宿した大きな競馬が、いつかまた違う現われとしてこの国の本当になる日のために。


