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AI、ってやっぱり胡散臭くね?


 「AI」という言葉を最近、あちこちでやたら目にするようになっています。

 例によっていろんな説明は各所でされていますが、いまひとつその中身はよくわからない。わからないのはおまえがすでに老害化石脳、時代遅れのポンコツになっているからだ、と言われるのはごもっとも、その通りではありますが、しかし、何やら次の時代を切り開き、新たな未来をさししめす素敵な呪文のように取り沙汰され、メディアの舞台で賑やかに使い回され始めているのを眺めていると、こちとらすでに無駄に長生きしてしまい始めている身の上、その分こういう事態にはこれまでも遭遇してきたような気がして、何とも既視感が拭えません。

 それに伴い、「エンジニア」というもの言いもくっついてきて、そこに「若者」「あたらしい世代」といった属性が相乗りしてきたら、なぜか政治の局面でもあれよあれよと頭角を現わし、それなりの議席も獲得してしまうような事態も出来。メディアの後押し、既存の政党や政治的勢力の思惑もからんでの底上げまでも、何やら同じ波乗りに浮かれているように見えるのは、いまどきの本邦の情報環境、特に世間一般その他おおぜいを相手取って動かそうとする際のからくりというのが、すでにしてそのような「気分」の上に浮遊するのが常態になった「広告・宣伝」ベクトルの資金によって駆動されていることのあらわれではあるのでしょう。

 要するに、世間一般その他おおぜい的にはよくわからないけれども、でも何か新しい素晴らしい技術がすでに出現していて、それは若い世代の専門家の新しい頭脳や感覚によって先導されていて、その彼ら彼女らはキラキラした目と自信に満ちた口調とで自分たちから見たそれら来るべきわれわれの社会の明日のイメージを語ってくれているらしい、と。そんな彼ら彼女らが、何をめざしてわざわざ政治の世界に、しかも立法府の当事者として首を突っ込んできているのか、そこは胡乱に感じるところなのですが、でもまあ、メディアの舞台でもすみやかに許容されて好意的に扱われているようだし、だったらまあ、当面お手並み拝見、要継続観察案件にしておくか、とまあ、ざっとそんな印象ではありました、とりあえずのところは。
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 ただ、年寄りゆえの既視感というのも、あまり馬鹿にしたものでもない。たとえば、かつての「インターネット」も、いまの「AI」と世間からの受け取られ方は同じようなものでした。すでにある通信手段の電話や無線などとどう違うのか、「ネットワーク」というけれどもそれはそんなに目新しい考え方なのか、など、「新しい技術」で「素晴らしい明日」を招来するということは喧伝されていても、それがいったいどういう点で「新しい」「素晴らしい」なのか、当時の感覚ではうまく理解できなかったものです。

 パソコン同士をつないで世界中を「ネットワーク」にする、というあたりまでは何となくイメージできても、そもそもそのパソコン自体がその頃はまだなじみの薄い普及段階の黎明期、ワープロや表計算などの事務的な作業に使う実務的な機械というよりも、まだちょっと高級なゲーム機みたいなイメージがせいぜいで、その限りでは仕事でなく「趣味」「娯楽」に寄せた道具という印象でしたから、それをわざわざ相互につなげてゆくことで何がどう新しい、素晴らしい明日を招来するものか、世間一般その他おおぜいレベルに凡庸でボンクラな門外漢にとっては腑に落ちないままでした。


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 だから、「どこか胡散臭い」「騙されているのではないか」といった疑心暗鬼が、どうしてもつきまとっていた。だって、記憶の底をさらってみれば、たとえばこんなことを、実に滔々と語ったりしていたのですから。思えばいまどき跋扈する日焼けツーブロックの証券屋のセールスマンか茶髪ピアスの情報商材屋、はたまた聞き慣れぬカタカナ遣いを多用する何が本業なのかわからないwebコンサルのように、実に見事なまでになめらかな口調で身ぶり手ぶりも取り混ぜて。

「今のパソコン市場の伸び方ではインターネット市場の伸び方はフォローできないから、テレビとかゲーム機とか携帯電話とかカーナビとか、いろんなデバイスとインターネットをつないでゆく。炊飯器やエアコンとか……」

 今から30年前、当時すでに一部界隈で売り出し中だった、それら「インターネット」に関連する輝かしい未来を標榜していたその頃の「若い世代」のひとりの言。雑誌での取材インタヴュー記事の一端で、聞き手は他でもない自分だったのですが、この時開陳されていた、当時としてはSFにしか思えなかったその「インターネット」のもたらしてくれるという未来像に対して、「あの、炊飯器とインターネットをつないだら何かいいことあるんですか?」と真顔で返しちまっていたあたり、「どこか胡散臭い」と感じていた証拠ありあり。ところが、なんのこの御仁、その程度で動じるようなタマではなかった。

 「だって、会社から炊飯器のスイッチを入れられるし、エアコンと連動して部屋の温度調整もできる。みんな気がつかないだけで、家の中の電気製品はインターネットとつなげば実はものすごく便利になるんですよ。」


「ヒゲソリだけじゃなくて風呂場や洗面所にあるものって医療関係とつながると、たとえば一日のヒゲの伸び具合で健康状態を教えてくれたり、血圧や体重を測ってくれて主治医のコンピューターにデータを入れてくれたりする。いや、もちろんプライバシーの問題とかあるけれども、でも、生活の中で自分の情報がどんどんコンピューターに蓄積されていって医者に行かなくても健康管理ができて便利でしょ。」(『EYE-COM』 1996年)

 昨今、世界中を巻き込んでの騒動になりつつあるらしい、かのエプスタイン・ファイルに関連してにわかに注目を浴びることになっている伊藤穣一、その若き日のひとコマ、ではありました。
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 いまから振り返ると、なるほどこの時、得々と語りながら大風呂敷広げられていたその未来予想図は、その後30年の間でそれなりに現実のものになってはいる。

 リモート操作で自分の部屋、住んでいる家の中の照明やエアコンその他の家電製品を動かすことが可能になっているし、体重計や血圧計といった個々の道具を「つなぐ」どころか、そもそも腕時計のようなデバイスひとつ身に装着すれば、それが血圧でも脈拍でも何でも24時間途切れなく生身のバイタル情報を記録し、何なら外部へリアルタイムで送信までしてくれる。映像も音声も、今やどこでも望む場所にカメラを設置することで自由自在、その場を24時間監視することもごく安価にできるようになっている。それらを相互につなぐ「ネットワーク」はわれわれの日常生活のあらゆる局面、さまざまな水準において「もうひとつの現実」「並行世界的なヴァーチャルのリアル」を下支えするからくりになっているらしい――そう考えてみれば確かに、かつてのSF的想像力は見事に現実化した、と言いたくなりますし、またその未来予想図は「正しかった」とうっかり褒めそやす気分に傾くのもわからなくもない。

 ただ、その大風呂敷がもたらすであろう現実について、30年前のご本人はというと、ただ「便利になる」としか言っていませんでした。その「便利」の内実、具体的にわれらの暮らしをどのように変えて、それによってどう「素晴らしい明日」になるのか、その点についてわかりやすく説明してくれることはないままだったし、そんなものなくても構わない、あるいはそこまでほぐして説明しなくてもわかるだろう、とでも言わんばかりに、全てはただひとつ「便利になる」という言葉だけ。そう、「便利」になるのだからいいじゃないか、だってその「便利」は世の中が良くなること、前へ進んでゆくことなのだから誰も文句はないはずじゃないのか、と。

 これに対して自分は、「それって大きなお世話ですよ。医者ぐらいてめえで行きますって」とやり返していました。単細胞丸出しな反応でお恥ずかしい限りですが、ただ、そう自嘲したものでもなかったのかな、と思うフシもあるのは、その「便利」一辺倒の、それこそいまどきAIの自動生成のような何の衒いも戸惑いも感じられない「素晴らしい明日」の遠近法なき青写真に対して、どこまでも「自分」という、いつの時代どんな立場の人間であれ、生身を抱えてこの世に生きてある限りは逃げられないはずの足場を期せずして反射的に突きつけていたこと、かもしれません。


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 「AI」という新しい技術と、それを介してもたらされつつあるらしいこれまで見たことのないような目新しい現実、それがもうすぐにでもわれわれの社会を大きく変えてゆく力になる――「AI」を「インターネット」に、あるいは何でもいい、新たに開発されている最先端の技術なり機器なりに置き換えても、悲しいかな、これはこれまでも結構普遍的に成りたってきている「まだ見ぬ明日」や「未来」についての話法であり、同時にまた、世間に対して有無を言わせぬある説得的な意図を伴った「おはなし」の語り口になってきました。そして、それは今でも基本的に変わっていないらしい。

 新しい技術というのは常にブラックボックス、世間一般その他おおぜいの感覚や日常生活を送る意識にとっては概ねよくわからない、だからうかうかと信用できない、胡散臭いものととらえられるのが常で、それは洋の東西を問わず「そういうもの」ではありました。

 産業革命が始まった頃、工場に導入された機械を打ち壊してまわったというラッダイト運動のように、新しい技術とそれがもたらす現実は、どうやら「そういうもの」という持続と安定によって支えられていたあたりまえの日常を無碍に無体に破壊してゆくようなものとしてわれらの眼前にいきなり立ち現れる邪悪なものでしかありませんでした。「便利」というもの言いで高圧的に見せつけられる未だ正体のよくわからない夢物語としての実利と、それに伴い変容させられ具体的な「不便」を強いられてゆく日々の現実の局面と、その双方を共に穏当に言語化し、比較衡量しながら身の丈の日常でのよりよいつきあい方を手間はかかるけれども模索してゆくということは、残念ながら多くの場合、できない相談でしかなかった。その結果、むしろ「便利」は夢物語の先物買いの担保も兼ねて新しい技術を問答無用で呑み込まされてしまうための呪文としてだけ使いまわされるようになってゆき、その一方、「不便」はなしくずしになかったことにされ、捌け口も失われたままのうしろ向きのルサンチマンにまみれて時代の推移に埋もれてゆくのが宿命になりました。

 「AI」に関連してなら、「Web3.0」なんてことも言われ始めている。これはどうやらあの「仮想通貨」というやつにまつわって発想されてきた能書きらしいのですが、その根幹にある「ブロックチェーン」という考え方も含めて、頑張って理解しようとするよりも先に、そもそもきわめつけに胡散臭く信用ならぬものと感じてしまって、ああ、あわれ老害化石脳は、またも脳内ラッダイトを勇躍、開始してしまうのであります。

「現実の通貨をやりとりするには、銀行という寡占的な取引機関を経由するしかありません。お金のやり取りを把握しているのは金融機関だけといえます。しかし、仮想通貨がこれと大きく違うのは、ブロックチェーン技術が利用されていることです。この世界では、コミュニティー内の全員が、誰が誰にいつ、いくら送金したかという台帳を全員で共有しており、個人間のお金の流れをいつでも知ることができます。そしてこの台帳を改ざん不可能なものにしているのがブロックチェーンの技術です。第三者のお墨付きという形ではなく、コミュニティー全員が改ざん不可能な情報を共有することで信頼性を担保しているのです。」

 「改竄不可能」な「信頼性の高い」情報を安全に担保できる仕組み。それは、その情報を「コミュニティー全員」が「共有」することで可能になる。これまでのインターネットのように、サービスのためのプラットフォームを提供する巨大企業にキンタマを握られることなく、誰もがそれぞれ個人のまま、信頼を互いに担保しあった安全な取引ができるようになる――あれ、これってかつて「インターネット」が当初ふりまいていた「ネットワーク」の夢物語と、「おはなし」のたてつけとしては何も変わっていないのでは?

「Web2.0の世界では、SNSの世界は自由なように見えて、プラットフォームはGAFAMといった巨大テックの寡占状態にあります。個人同士の情報の共有に見えても、そこにはGAFAMといった外部の存在があり、かつ、個人情報の収集もこれらのテック企業によって寡占的に行われています。しかし、このような巨大テック企業だけに頼るのではなく、プラットフォームそのものを個人が作り出すことが可能になる、というのがWeb3.0の概念です。」 (「新しいインターネットの形「Web3.0」の世界とは? キーワードは「ブロックチェーン」」https://www.nttbizsol.jp/knowledge/expansion/202303271100000839.html


 技術的なことやその真偽、本当に実現可能か否か、などについては全く無知だしわからない。けれどもそんな無知蒙昧な世間一般その他おおぜいの一部でしかない老害化石脳を抱えるこの身であっても、これが24時間リアルタイムでの「記録」が自動的におこなわれるような情報環境が現実のものになってきたことで、ここまで言語化され理論化された考え方なのではないか、ということくらいには思い至れます。干涸らびたもの言いを敢えて持ち出すなら、そのようないまどきの情報環境を「下部構造」として構築され、現前するようになった「上部構造」のあらわれの一端、とか。

 われらの生きているこの現実は絶え間なく「記録」されている。映像でも音声でも、あるいはそれらから引き起こして文字化したテキストとしてでも、望む形式で「情報」として必ずどこかに「記録」され続けている。必要があればそれらにアクセスして引き出すことはできるし、それはひとまず「便利」けれども、あのAIが社会に実装されていったあかつきには、それらの「記録」を読み込んで新たな現実を編み上げてゆくこともまた自動的に、勝手にしてゆけるようにもなるらしい。「生産」や「製作」「創造」などでなく「生成」という、主語との結びつきが希薄になる動詞が使われる局面が静かに増えているのも、こういう情報環境の変貌とどこかで関わっているのでしょう。生身の側は具体的な作業としてそれら「記録」を触ることもしなくていい、「記録」が新たに「情報」をつむいでゆき、それら「情報」の水準で並行世界な現実の〈リアル〉が、常にヴァーチャルに紡ぎ出され続けている、そんな近未来。

 それは、どこで誰が何のために、という主体との関係がどこにも見えないまま「記録」だけが「情報」として淡々と蓄積されてゆき得る情報環境でもあります。身の回りの現実が即座に「情報」に変換、分解され、そこに生きて動いている生身の生体の「情報」なども含めて、ほぼ自動的に「記録」されてゆく。これまでのように記録する者と記録されたものとが紐付けられて初めて「使える」ものとして存在する、というあたりまえから外れた「記録」のありようが、すでに静かに淡々とあたりまえに存在し続けるようになっているらしい。社会とは、われわれが日々生きているこの現実とは、少なくとも文明の位相においては、何らかの「記録」とそれらを一定の約束ごとの上に維持、管理し運用する仕組みを前提に成り立つものである、という認識が良くも悪くもうまく共有されてこないままのところがある本邦においてはなおのこと。文字の読み書きが早くから普及していた分、何らかの「記録」――書きつけ、書きものが身の回りにあたりまえに存在してきたところがあるらしかったから、それらを特別なものとして取り扱う感覚も鋭角的に宿ってゆきにくかったのかも知れません。


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 大方があたりまえだと思ったり感じたりしているようなことは、わざわざ「記録」されないものです。それどころか、わざわざ意識されたり見られたりすらされなかったりする。「記録」するということは、そのような記録する者、何らかの主体が必ず関わって初めて成り立つようなもの、だったはずで、他でもない、文字ないしは文字に準ずるような媒体を介した記録はそんなものでしたが、これが音声や映像、画像の「記録」が可能になって、生身の人間が主体として直接関わっての作業でなく何らかの「機械」「装置」が介在して初めて成り立ち得るようになって以来、主体なき「記録」もまた淡々と行なわれるようになってきました。

 たとえば、街頭の監視カメラの、あるいはクルマに搭載されているドライブレコーダーの「記録」の主体とは、という問い。録画や録音をする機器は24時間、淡々と動いているけれども、それはどこの誰と、どんな主体と紐付けられている「記録」であり「情報」なのか。何か事件や事故が起きて、必要になった場合に初めてそれらは引き出されて「便利」に使われるのでしょうし、またそういう「何かあった時」のために「記録」を続けているのでしょう。でも、その「記録」をおこなった主体とは? それは時間と空間の座標軸に支えられるわれわれの〈いま・ここ〉の裡に、どのように存在し得るものなのか。それとも、もうすでにそのようなわれわれの生きる現実とは別の、それこそ並行世界的な別次元の空間に位置するようなものなのか。だとしたら、あの「仮想通貨」という胡散臭くもあやしげな発想を支える根幹らしい「ブロックチェーン」に支えられる「web3.0」の「ネットワーク」とは、われら限りある生を生きる生身の生きものとしての人間が存在するこの現実とは別の現実を手ざわりあるもののようにまことしやかに「生成」してゆく究極のフェイクを現出する仕掛けに過ぎないのではないか。

 それら「記録」の意味、同時代の情報環境における位相の変遷と、そこに当然関わってくるはずのいわゆる「歴史」なり「社会」なりの認識のされ方の否応なき変貌。どこかで何かが――そう、誰かが、ではなくてもすでに構わない、何か得体の知れないものが〈いま・ここ〉のこの現実をどこかで勝手に「記録」しているものらしい、そんな感覚の静かな日常化。意識しないから「そういうもの」としてそれ以上意識的に自覚的に関わることも薄くなるわけで、かつてのテレビ番組を録画したビデオの集積のように、録画=記録されているということだけに安心して、それらを再度観る、反復して関わるということを忘れてゆくことが、日常生活のあらゆる局面であたりまえになってく。言わば「記録」の自然環境化なわけで、そのように「記録」の存在を意識しないようになった結果は、「人間」や「個人」、そしてそこに宿るべきものとされてきた「自由」や「主体」、あるいは「信頼」や「義務」、「契約」や「責任」といった派生的なたてつけなども全部ひっくるめて情報環境の裡に溶け込まされた「分散管理」に「安全」かつ「改竄不可能」な形で任されるようになり、それこそルネッサンスこのかた無邪気に信じられてきたようなこれまでの西欧文脈由来な「人間」像の約束ごとは、良くも悪くもそのフレームだけでなく、そこに長年込められ蓄積されてきた内実も含めてなしくずしに煮崩れてゆく。

 それは、かつて言われたような「個人の解体」などと地続きのようでありながら、しかしまた少し違う難儀をはらんだ過程になります。「個人」という単位での「自分」という個体のまとまりが自明に前提にならなくなっていて、時間軸に沿った連続性や持続性をもとに維持されるべき「個」としての「自分」というたてつけにおける、その連続や持続そのものが保証されず、またそれでも別に不都合を感じないような状況。集中する、持続する、その連続性の裡に「個人」の内面もまた輪郭を確かめながら制御され、安定したものになってゆく、そういう一連の系が保証できなくなってきています。

 昨今、文脈や背景を考慮しない、あるいはできない、だからその場その場に最適化した行動や言動を反射的にしてゆくことが最も合理的で生産的であり、時間軸に沿った整合性などに配慮することはない、といったルールに従って動く個体が増えてきているように見えるのも、そしてそれを「個人」の「信頼」といったこれまでのものさしで評価しようとしていともたやすく裏切られる不毛さも、同じ生身の生きもの、同じ母語のたてつけの裡に生きている個体であってもすでに並行世界の現実の側にうっかり転生してしまっている存在と、隣り合わせに日々暮らさざるを得なくなりつつあることの反映なのだと思い始めています。

「高市さんを守ってあげてくださいね」

 総選挙が終わりました。

 選挙権と共に市民的な自由が一応それなりに保証されている民主主義政体下での普通選挙というのは、良くも悪くもその時その社会の「民意」を、通り一遍の理屈や賢しらぶった能書きなどの予期し得ぬ水準も含めてうっかり反映させて眼前の現実として可視化してしまうものであるという、いまさらあたりまえすぎるくらいあたりまえのことをあらためて淡々と示してくれました。

 たとえば、こんな感じで。

 「高市さんを守ってあげてくださいね」――今回の総選挙、異例に短かったという選挙戦の間、各地で辻立ちをし、街頭演説を繰り返し、地元選挙区で日々駆けずり回りながら必死で支持を訴え続ける候補者たちの間から、有権者からこのような声をかけられたという話がちらほら聞こえてきていました。

 いずれ型通りの選挙報道、映像画面の断片や切り取られた音声、雑感として整えられたエピソードなどかたちはさまざまでも、日々対面し、声をかけ、握手をしてまわるその先にいる無数と言っていいほどの匿名の有権者たちの中に、言い方は異なれど、そのような「お願い」を候補者に託す人がたが混じっていた。そのことがお定まりの情報の洪水の中、その片隅であれ確かに複数回、異なる背景で報じられているのに接しました。

 熱心な支持者や、何らか利害関係のある組織や団体の関係者などはいざ知らず、とにかく手当たり次第に声をかけ、にこやかに愛想をふりまき、「いい人」「信頼できる人柄」を懸命に演じ続けねばならない選挙期間中の候補者の立ち居振る舞いに対して、ただ無視して足早に通り過ぎるのでない何らかの反応を示してくれるくらいの人であっても、わざわざ候補者に声をかける人は、現実にどれくらいいるものか。仮にいたとしても、その候補者の熱心さに応じて「がんばってください」くらいのあたりさわりのない言葉をかけるのが関の山、それが大方ではないか。なのに、「高市さんを守ってあげてくださいね」とはっきり「お願い」をする。もちろん自民党の候補者に対してではあるにせよ、個々の候補者の代議士としての信条やそれまでの政界での立ち回り方などあれこれの事情など無視した上で、高市さんを守って欲しいという、ただそれだけのことをわざわざ声にする。それがたまたまでなく、異なる選挙区や街宣の現場で似たような挿話として伝えられていた。

 支持政党がどうとか、公約がいいとか人柄が信頼できるとか、投票所の出口調査のお定まりの質問項目におさまるような表層の「政治」の話ではない、民主主義政体での普通選挙がうっかりと反映してしまうような、言葉本来の意味での「民意」のある深度に感応しているささやかな、でもどこか「民俗」的な根の深さを感じさせる挿話ではあります。そして、このような挿話がうっかり転がり出してくる程度に、今回の総選挙が結果としてあぶり出した「民意」のその想定外にくっきりとした輪郭は、ある意味「信心」や「信仰」とくくられてきたような世間一般その他おおぜいのこころの動き方、「願い」へと収斂してゆくダイナミズムと連動しながら、期せずして描き出されたもののように思えます。

 「高市さん」という親しい呼び方に込められたそれらの「願い」の背後には、どこかであの「世直し」への希求のようなものの気配すら揺蕩っている。こんな名もないわたしたちは何も力になれないけれども、あなたは当選すれば国会という晴れの舞台であの「高市さん」を手助けして、お守りすることもできるのでしょう、ならばそれをお願いします、このわたしたちに代わって――世の中が変わる、いまより少しはましになる、そう思わせてくれる人のかたちがもしかしたら見えているのかもしれない、だからこそ「願い」を原動力に参政権は投票として行使され、「民意」をあのような具体的な結果として示すことになりました。

 戦後80年、本邦の「政治」を規定してきた枠組みが最終的に終幕を迎えた、と評する向きも出始めた今回の総選挙。「失われた30年」などと自嘲気味に言われることもあった「冷戦崩壊」後の本邦の停滞の時間は、しかしこのように「戦後」を終わらせてゆく力となる「信心」や「信仰」を熟成し、「世直し」を下敷きにした漠然とした「願い」を「民意」として可視化させてゆく、その仕込みのための時間でもあったのなら以て瞑すべし、なのかもしれません。

「集まる」ということの現在――衆院総選挙 2026



 万歳三唱、がまだ生きていました。かろうじて、ではあるにせよ、でもまあ、ひとつの「かたち」としてなぞられている、その程度には。

 それは、日々の暮らしの水準に降りて身の裡にまで食い込んでしまった習い性というやつは、どれだけその中身も内実も空虚になってしまったところで、その姿かたちだけはおいそれと消えてなくなってしまわないもので、それどころかその空虚なかたちのまま、また別の習い性へとのめのめと転生してしまいもするらしいことを教えてくれていました。

 すでに物理的にも世渡り的にも「世に遠いひとつの隠居」と化しているこの身のこと、浮世世間のよしなしごとからは良くも悪くも心身共に遠ざけておくのが日々の習い性になって久しく、テレビだの新聞だのラジオだの、それら少し前までの「文明の利器」もとうに縁遠いものになり、いまはただ掌中のスマホと眼前のパソコンにつながるモニター画面だけが世の中とのなけなしの窓口になっている日々。とは言え、それでもこのたびの総選挙のような何らか時代の節目になるできごとについては否応なしに飛び込んでくるのが、電網介した新時代の耳目のいまどき。当選確実から確定になって喜ぶ選挙事務所の光景に、それぞれお約束のように概ねなされる万歳三唱の声、そして身ぶり。一見昔ながらに見えるその光景にも、しかし少し立ち止まってこの場所から遠く眺めてみると、違いは確かにありました。

 「ばんざ~い」と両手を全力で振り上げ発声する、そのかたちが本当にただの型通りでしかなくなっている。感極まって、身の裡から湧き上がる何らかの力が表沙汰になることを求めてほとばしらんとする、ふだんなら意識して自覚の下に選ぶこともできるかもしれない日常での表現の型のあれこれをあわてて手探りしてみる暇もなく、とにかく全身全霊生身の摂理、〈いま・ここ〉にはらまれた呂律任せに身をうち震わせるしかない昂ぶった状態でのまさに「お手上げ」の切実、それがない。たとえわずかな気配としてさえ、ないのであります。

 むろん候補によって、事務所によって、あるいは所属する派閥や政党、さらには地元の地域などによって、それぞれあらわれ方の濃淡もあれば、「万歳」の音頭取りとそれに唱和してみせる声や調子にも違いはある。けれども、その「万歳」にも「三唱」にも、一連の逃げようのない切羽詰まった「かたち」の表出というギリギリ刹那の熱気や生気、活気などは本当に薄く淡いものとしてしかそこに漂っていない。敢えて大文字のもの言いを弄せば、歴史や文化へと滔々と流れ、連なってゆくはずの日々の暮らしの持続性に裏づけられ紐つけられたあらわれ、それこそ「生活の古典」の一端としてなどではすでになく、最も痩せた貧しい意味での形式、形骸化して漠然となぞられるだけの型、になっているのでした。


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 異例の短期決戦、しかも厳冬下の選挙戦という触れ込みだった今回の総選挙。むろん全国津々浦々、それぞれの政党や派閥の主義主張や趣向に応じて街頭での演説会、集会なども数多く開かれ、またそれもいまどきの情報環境のこと、随所で各種メディアが刺さり込んであれこれ報じられていたようですから、それらを介した二次創作ならぬ二次報道的な回路であっても、web環境介した手元の端末にその場の様子は映像や音声も含めて、断片的にせよ縷々届けられる。まあ、こちとら単にそれらを呑気にのんべんだらりと気ままに啄んでいただけなのですが、そんな中、もうひとつ気がついたことも。

 これまでの既存の組織や政党、支持団体が主催したり、あるいは明らかに動員をかけて空気を入れたような成り立ちの集会では、その最後の締めみたいな形で「がんばろう」「やり抜くぞ」、さらにはいまどきまだ生き残っていたのかと驚かされた「エイ、エイ、オー」といった古色蒼然な文句も含めて、いずれそれらスローガンの類を仕切りのリーダーなり司会者の音頭取りに従ってその場の皆で「三唱」するのがひとつの型通りで、それもまた万歳三唱のように両手を上げるのでなく、握りこぶしを固めて片手を突き上げるポーズまでが伴うもの。もともと労働組合などに自然発生的にできあがっていった集会作法あたりから由来する、いわゆるシュプレヒコールの分解、頽廃形態なのかもしれませんが、何にせよこのあたりもひっくるめて、これは昨今の本邦「政治」がらみの集まりの定型になっています。

 なのに、こういう類の定型が、今回東奔西走、獅子奮迅の全国巡幸で選挙戦の台風の目となっていた高市総理が登場する集会の現場では表だって目につかなかったらしい。その代わり、手に手にスマホを掲げ、概ね「おとなしく」壇上の演者の話に耳傾ける人がたのたたずまいが目に立ち、印象的だった、と。

 これ、何も自分ごときがひとり気づいたからと偉そうに言うのではない。同様のことはSNSその他いまどきの情報環境でも割と目敏く指摘されていて、特に現場に実際に参加していた人がたからも、その実況報告と共に「証言」があれこれ出ていましたから、あれ、やっぱりそうなんだ、単にweb越しの断片経由な自分だけの印象というわけでもないんだ、とあらためて思い直したくらい。是非はともかくとして、これまで一般的に考えられるような選挙がらみの集会や演説会の現場にありがちな様子とは、良くも悪くも違っていた、と。

「二子玉川公園とんでもないことになってる。もはやサナフェス。」

「支持者の中からは、好きなアイドルなどを応援する「推し活」ならぬ「サナ活」という言葉も生まれた。」

 ご承知のように今回、高市総理が応援にやってくる現場には、どこも想定以上の人数が押し寄せていました。ということは、あらかじめ動員かけられ、集められる人数を主催者側でそれなりに想定した規模を超える不特定多数の「その他おおぜい」が集まってしまっていた。そのような場では予定された集会の組立てや当日の流れも徹底できず、あらかじめ期待したような統制がとれなかっただろうことまでは、まず普通に想像できます。実際、定型的な何らかの「三唱」なども会場によってはやっていたようですが、それらにおとなしく従ってくれるような想定内の聴衆・観客でない〈それ以外〉の「その他おおぜい」が数多く集まった現場では、その「数」に紛れてそれもうまくかたちにならない。いきおい、予期せぬ事故や偶発的な事態が起こらないようその場を統制することが、現場の主催者としては最優先事項になるのが自然なわけで、結果的に目についたのは、多くがそれぞれ片手にスマホを掲げて写真や動画を撮影したり、あるいは録音したりといった、まあ、いまどきの事故現場やイベントなどに集まる「その他おおぜい」にありがちな、良くも悪くも野次馬的な自由気ままな身ぶりばかりで、何らか意図や目的、方向性などを想定してその場のみならず対外的にも示威的にアピールし、具体的に実演してわからせる――つまりdemonstrationを目的とした演説会や集会としては、概ね散漫でまとまりのないように見える、少なくともそのような印象を与える現場になっていたことは、ひとまず確かなようではあります。

 とは言え、実際に何かひどい混乱があちこちで起こったような話にもなっていない。

 そりゃ予期せぬ人数が押し寄せたのだから、それに見合った混雑はあっただろうし、「サナ活」と呼ばれもした「推し」や「追っかけ」に等しい場違いなムーヴも含まれていたでしょう。また、選挙運動ではこれも定番、候補者への握手など身体的な接触の要求もそれなりに激しく、そんな中、持病の関節リウマチもものかは、果敢に聴衆へと歩み寄ってサービスこれ努めていた高市総理があるところで握手していた片手を無理に引っ張られたとかで急遽治療を要する事態にもなった。

 ただそれでも、それらを別にしたら概ねみんな「おとなしく」演説に耳傾け、それなりに熱心に話を聞こうとしていたらしいのは、いかにもいまどき本邦の集合体「その他おおぜい」しぐさというか、若い衆世代だけでもない天然自然な統制ぶり。総理自身に対してはそれこそいまどきのアイドルさながら「サナ~」だの「こっち向いて~」だのの声がけから、手作りの応援ボードやタオルなどを掲げる人がたもいて、そのへんもまた本邦芸能系イベントでの聴衆や観客の「その他おおぜい」身ぶりの定型ではあれど、少なくとも選挙がらみの政治的な方向性が明確に定められざるを得ない集会での聴衆や観客のそれとは違う。まあ、そういう意味では「政治」に対して生真面目な「おとな」の人がたの感覚からすれば、眉をひそめられるような現場にもなっていたのでしょう。

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 そもそも、不特定多数の「その他おおぜい」が「集まる」こと、それ自体は制御の必要な状況である、と考えるのが、警察なり行政なり、いずれ「秩序」を維持する役回りの側の自然な発想ではあります。

 特に、いいトシしたおっさんや、すでに社会で働く現役勤労青年など、いずれたてつけが「おとな」のおとこ衆の群れなら、軍隊や学校その他既存のホモソーシャルな集団での制御のノウハウもその経験値も応用可能だったところはあるだろうし、そういう意味でまだしも想定内だとしても、未だ世に棲む「おとな」になりきっていない10代も含めた若い衆世代が主体の不特定多数、ましてや女性までもが一緒くたに予期せぬ規模でうっかり集まってしまう事態のヤバさというのは、こういうお題設定の際に割と想定されがちな「政治」がらみのデモや集会のそれよりも、たとえばロカビリーからグループサウンズに至る「芸能」関連の現場の熱狂ぶりなどの方が、本邦の戦後の過程においてはより深刻な問題を提起するものだったようです。それこそ「ミーちゃんハーちゃん」と呼ばれ始めていたような軽佻浮薄、世の中に対して「おとな」としての責任を持たなくても良く、だからそれだけ当事者性も薄いままで「そういうもの」として許されている〈おんな・こども〉ならでは、好き嫌い任せのふわふわした存在で、だからそれまでそのような不特定多数の「その他おおぜい」として具体的に「集まる」ことが特に正面から想定されてもいなかった形象。1964年のビートルズ来日の際の演奏会場となった日本武道館の警備ぶりなどは、そのようなそれまで具体的に現前化していなかった新たな「その他おおぜい」に対する現実的な制御、現場での統制のノウハウを蓄積しなければならないという問題意識の上で、初めて意識的に計画立案され、実行されたものだと言われていますが、それはまた別の話。

 いずれにせよ、選挙がらみの「政治」的な集会、演説会においても、いまやそのような「その他おおぜい」の集まり方がうっかりと現前化し得るということ、それは少し前まで半ば年中行事化しかかっていた渋谷のハロウィーンや、あるいは近年「民俗文化」的な扱いで海外から評価されるようになったこともあり、ある「かたち」の側にそれなりに回収する道筋が立ったようにも見える近年の各地の成人式での暴れっぷりなどが好例でしょう。とは言え、こと選挙に関わる集会の類でそのような「その他おおぜい」の集まり方、それも若い衆世代も平然と混じる想定以上の数を具体的にはらんだ事態は、主催者はもとより警備担当者、報道などの立場においても、実際に〈いま・ここ〉のできごととして現前化することは果してどれだけ想定されていたでしょうか。

 形骸化し、外形だけなぞる「万歳三唱」や「がんばろう」のコールの身ぶりは、それがいくら空虚なものであり、またその声や響きも含めて生身の現前性から乖離してしまったものになってはいても、なるほどそれはそれで整然とまとまった現前を示すものだし、それによって一定の数の人間がそこにいるその場の雰囲気をある方向へと予定調和的にわかりやすく意味づける上での手助けにはなる。また、その程度には生身の現前ゆえの最低限の熱っぽさや真剣みなども、ひとまずその場の〈まるごと〉の〈リアル〉の位相に組み込まれもするし、だからこそそこに身を置く当事者たちにとってもそれなりの意義をひとまず感じることができるようにもなるでしょう。

 その場に参加して、現場に立ち会えてよかった、という印象を当事者的に身の裡に残すことができる、これもまた「政治」という意味での大きな効果、敢えてむくつけに言えば「実利」ではあります。それらの「実利」は当然、その集会を仕事として、稼業のルーティンとして取材し報道するメディアの話法や文法の水準においてもなめらかに接続されてゆく。そうして、商品として流通可能なかたちに調整済みの情報に変換され、それらの集会の事実もあまねく無難に「そういうもの」の水準に落とし込まれて、世間に広まってゆくことにもなる。

 かくて世は何ごともなし、現場で起こっている〈いま・ここ〉の事態、〈まるごと〉の〈リアル〉も淡々と定められた間尺で制御されてゆきます。「秩序」の維持、制御のからくりというのは何であれ概ねそんなもの、日々の流れの「そういうもの」としてことさらに意識されることのないようまるく収め、回収してゆくのがその本領であり、本質です。


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 けれども、その制御の文法の外側から、〈それ以外〉がうっかりと訪れてしまう想定外も、現実にはあったりする。

 選挙がらみの「政治」の集会に、そういう「その他おおぜい」がそれなりに大挙して押し寄せてしまった。だからその集会の「場」は想定されていた当事者間尺の「関係」の完結性を崩されてしまい、流通可能な調整済みの情報のありようもまたうまく保ちにくくなり、という次第で、かくて今回の選挙戦における高市総理の応援街頭演説の全国巡幸は、「人気」「熱狂」「盛りあがり」といった通りいっぺんのもの言いの系で収めようにも収まりきれない、どこか微妙な違和感を報道の字面にも雑味のように漂わせながら、語り継がれていったもののようでした。

 確かに、人数は多かった。普通に1,000人規模、大きめの場所や激戦区の候補への応援、選挙戦的に節目のタイミングだとそれ以上、中には一万人近く動員したという観測さえありましたし、またその中身についても、これまでのこういう集会の例からすると、若い世代や女性の姿が確かに目立ってもいた。そういう意味でもいわゆる選挙がらみの「政治」の集会としては異質な場が現前していた、それはひとまず確かだったらしい。なのに、微妙な違和感がその場の印象としての語られ方ににじみ出していたように感じたのはなぜか。

 おそらく、でしかないのですが、その理由のひとつには、その場に立ち会っていたそのような〈それ以外〉も含めた「その他おおぜい」のうち、果してどれくらいが実際の投票行動に結びつくのだろう、という生真面目な懸念、ないしは不安みたいなものが、漠然としたものではあれ、言語化以前の戸惑いと共にあったように自分は感じています。

 これまでの「政治」集会としては異質な人がたが想定外に集まってはきたけれども、でも、だからと言ってこれらの「その他おおぜい」は来るべき投票日に実際に投票所に足を向けてくれるような人がたなのか、その点について確信持った判断ができない。それがその場に仕事として赴いていた主催者側や警備、報道陣などはもとより、同じ「その他おおぜい」として制御される側に身を置いていた「現地実況」「証言」勢であるSNS上の名無したちまでも含めて、鈍く共有していた感覚だったのではないか。

 なるほど、みな一様にスマホを掲げ、動画の撮影をしていた。応援グッズを手にしながら、ただじっと前方を見つめていた。安倍元首相の「暗殺」以降、この種の選挙がらみの街頭演説や集会での警備状況は厳戒化されているから、演者からは一定以上の距離を置かれる会場のつくりになっているし、現場周囲の見晴らしのいい場所も用意周到に立ち入り禁止、お目当ての高市総理の顔はおろか姿でさえもどうかしたらまともに肉眼では見ることのできない、そんなその他おおぜいの群れにモブとして巻き込まれるだけの可能性が高いのに、それでも静かに、おとなしくその与えられた場所で「推し」の語りに耳傾けているように見える。

「主婦の佐々木瞳さんは3日、「さなえさんありがとう」と書かれたボードを掲げながら、高市氏の演説に耳を傾けていた。」

「 「高市氏には「信念があるし、政策が明確であること、日本を他の国から守ってくださる強い意志がある」と言う佐々木さん。「全面的に応援していこうと思っている」と語った。」

 でも、だからと言ってそこに何か生身の裡の何ものかが動く気配はそれほど感じられない。生身は確かにその場にいるのに、でもそこにしっかりと「いる」ようにも見えない、そんな感じ。演説の声を実際に耳にしているだろうに、うなずいたり同意したり、あるいは首をかしげたりといった具体的な反応も乏しい。かつての演説会なら「ノウノウ」「ヒヤヒヤ」などと横文字由来の直訳の合いの手が入ったようだし、あるいは「異議なし」「ナンセンス」などの少なくともこれまでのいわゆる「政治」の集会においてあり得てきたような、そして「そういうもの」として理解されてきたような種類のわかりやすい「熱狂」や「興奮」、あるいは「支持」や「共感」などをはらんだ共同性、何よりもその場に具体的な「関係」を取り結んでいることがくっきりと見えるコール&レスポンス的な応答の筋道が現前していただろう。なのに、そういう理解に自然に収斂してゆかせることが可能になるような何らかの糸口も、その眼前の「その他おおぜい」からは探り当てにくい。

 これらの「その他おおぜい」は高市の「支持者」なのか、それとも単なるミーハー、アイドルの追っかけや推しと同じ「ファン」でしかないのか。生真面目に「政治」を考え、各政党や候補者の主張や政策、人となりを理解し、自分の頭で考えて主体的に判断する、そんなあるべき一人前の「おとな」の有権者とはどうも言いにくい。だとしたら、ここに足を運んでいるからと言って投票所に行くとは限らない。その程度にいい加減で無責任な、選挙において常に〈それ以外〉の余計ものとして扱われてきた「無党派層」のいまどきであり、たとえ投票したとしても「浮動票」の一部でしかないのではないか。街頭演説でいくら人気を博し、湧き立つような歓声に迎えられていても、いざ開票となったら全く掌返しな結果にしかなっていなかった、そんな悲喜劇はこれまでの選挙でいくらでもある。「選挙は水もの」というのはまさにそういうことで、いまこういう想定外の「その他おおぜい」が押し寄せていても、そのまま票として獲得されるわけでもないのが通例。だからこの先、想定される事態というのは……

「(ある専門家は)「一気に好きか嫌いかになってしまうので、そこがやはりSNSの推し活化選挙の危ういところだ」と指摘。若者は飛びつくのも早いが、「去るのも早い」と語った。」

 そして、それら微妙な違和感に対するひとまずの答え合わせは、あの開票結果がとりあえずこれ以上ないほどわかりやすく、何かを思い知らせてくれるかのようにくっきりと示してくれていました。

 あの結果をどう〈いま・ここ〉の〈リアル〉として穏当に受け止めることができるのか。何も選挙や「政治」に関わる場だけでもない。この生身を介して「関係」をつむぎ「場」を編み上げ、何らか「上演」を介して「現場」の〈まるごと〉を同時代の現実に織り込み続ける、いずれそのような「当事者」としての主体、「市民」でも「個人」でも「人間」でも名前など何でも構わない、そのような実存がいま、どのようにこれまでと異なるかたちをこの情報環境下にうっかりと具体的に現前させ始めているのか。

「高市さんの街頭演説を聞きに行ったが、人が多すぎて姿は見えない、声は聞こえないと雰囲気を味わっただけだった。若い人が多い。人気の高低は置いといて、政治への関心を高めてくれればいい。


 一般人だろうか、決して婦警ではない女性がしきりと声をあげて交通整理をしていた。こんな人もいていい。」

餃子と「革命」



 「革命」という言葉が、かつてありました。いや、今もまだ「ある」と思ってはいるのですが、それはともかく。

 漢字二文字で構成される単語という意味では、かの福沢諭吉とそのご一統が明治初年は文明開化の上げ潮にそれまで見慣れぬけったいな横文字を若気の至りも含めての気合い一発、とにかく目になじみの漢字の組み合わせ、タテ文字パッケージに力任せに押し込めちまった。それが結局、なんだかんだ言いながらもわれらポンニチからすれば、かの西欧のものの見方や考え方、この世の骨組み、背後のからくりを言葉を介して手もと足もとでとっつかまえて再編集してやろうという傲岸不遜でステキな彼らの大風呂敷ごと、まるっと何とか自前の言葉の間尺に納めなおして使い回せるようになるための下ごしらえだったわけで。また事実その結果、同じ漢字を使っていた半島や大陸の同文世間にもそれなりに便利に活用してもらうことができた19世紀このかたの結構な発明であり、ちと大げさに言えば本邦発の文明史的な貢献事案のひとつにもなったわけですが、それもまたともかくとして。

 それらの言葉たちの中でも、この「革命」というやつ、最初に横文字から置き換えられてこのかた、いわく因縁つきの格別な内実をはらまされつつ、本邦近代のわれら同胞のココロの習い性の裡に、うたた転変してきた経緯があったりするようです。

 もともと、フランス革命やら何やらあちゃらの歴史、西欧が西欧になってきた経緯来歴から何とかうまくわかりたくて無理やりこさえたもので、福沢諭吉だか中江兆民だか、そういう横文字由来の自由主義思想に脳を灼かれた明治初年のハイカラ若い衆新世代界隈のやむにやまれぬ七転八倒の一端。それがその後、辛亥革命からロシア革命にいたる洋の東西不問での物情騒然が連鎖的に眼前の同時代に繰り広げられた今世紀入ってからの世界的なムーヴで一気にいらぬブーストをかけられちまったのも、同時代状況に巻き込まれつつ生きるしかない歴史内存在としてのわれらニンゲンの宿命、致し方ないことでもありました。

 ただ、この「革命」、本邦の世間一般その他おおぜいの想像力にとっては、そのお行儀よさげな漢字の字面由来、四角四面な意味あいだけで納得、咀嚼されてきたわけでもない。むしろそのたてつけの〈それ以外〉、余白というかバリというか、正面からはそれと意識し自覚されることは普通ないにせよ、でも、実際に使い回される段では影のように寄り添いながらまつわりついてくる領分が必ずあって、それもひっくるめてのセット販売でようやくうまく認識されるような言葉だったらしい。そのあたりの味わい、生きた歴史としての言葉の経緯来歴の機微もまた、昨今ではないがしろにされてきてすでに久しいようなのですが。

 たとえば、唐突ですが、餃子で言うならあのハネと呼ばれる部分。近年あらためて意識されるようになり、わざわざ「羽根つき餃子」と称して売り物にもなっていて、やれ発祥は蒲田の街中華だ、いや、たまたま冷えた餃子を焼き直す際に溶いた小麦粉の混じった水を流し込んだのが偶然に、と例によっての考証沙汰もあれこれ流れているようで、このへん捨て置けない話でもあるのですが、言いたいのはそんなことではない。少し前まで「餃子」という単語で想起されるイメージでは特に意識されなかっただろうあのパリパリのフリルのごときハネも、単に言葉としてではなく実際に具体的な食いものとして眼前に現れる局面では、われらの内なる餃子の内実にとって決してないがしろにできない不可分の要素にまでなっている、そのことです。

 つまり、単なる記号としての言葉、効率的な意味伝達の媒体としてではなく、われらの想像力の地平に宿り、茫洋かつ広大無辺なこの不特定多数その他おおぜいの意識の銀幕に合焦されてくる〈いま・ここ〉の〈リアル〉としての餃子というやつは、意味や理屈以前、ミもフタもなく具体的で直感的で直截な、そんな〈まるごと〉として「ある」形象として初めて餃子として十全に、その言葉の本願に適うようめでたく認識されるようになっている。言葉と実存、といったもっともらしい問いと、それに見合うと信じられてきたかろやかで見てくれ整えられた空中戦仕様の文字で綴られる能書きの類も、手もと足もとでほぐして身の丈の「わかる」の方へと開いてゆくなら、要はそういう話。それは、書き言葉と話し言葉の本質的な関係にもどこか通じる、普段はおいそれと意識せず自覚もないまま「そういうもの」としてその裡に生きているわれらの現実の成りたちそのものにも関わってきます。

 「餃子」がそうなら「革命」も、言葉としてなら同じこと。単なる思想、考察、分析、研究沙汰のために特化された便利な道具、かつ机上のアクセサリーとしての言葉でなく、〈いま・ここ〉を日々生きている生身を介した実用第一、変幻自在なサバイバルツールとしての言葉なら、書き言葉としての意味や理屈の内実だけでなく、それをあやつる身の裡に必ず想起され連鎖してゆく想像力も含めた動態である話し言葉的な相――われらが生身である以上必ず否定し切ることのできないあやしくもとりとめない終わりなき活劇としての生と、それを意味づけ自ら認識してゆくための血湧き肉躍る「おはなし」のリテラシーを介してこそ、より切実にいきいきと受け止められてきた経緯というのが、この「革命」という言葉に関しては実は大きかったのではないか。いや、むしろそっちこそがことの本質、〈まるごと〉の歴史においてただならぬできごとをうっかり導き出してしまう呪文として躍動してきた、その言葉としての力の本体というのは、書き言葉としてではなく話し言葉的な相において、「おはなし」のリテラシーを介した想像力にこそ秘められていたのではないか。

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 そもそもの話、あの「革命」という字面が、すでによろしくない。

 たとえば、本であれ雑誌であれその紙誌面、はたまたどこかの街頭、マチの雑沓で不意に出喰わす何らか看板や広告、ビラやチラシ、昨今だとフライヤーとか言うのでしょうか、いずれそういう出会い頭にたまさか目にしてしまう文字としてだけでも、この「革命」にまつわるどうにも場違いな感じというのは、もはや致し方のないこととは言え、やはり不自由は不自由、存分に使い回して日々の現実を言語化するための手もとの道具箱に入れておくことすらご遠慮願いたい雰囲気が拭い難くつきまとう。

 聞けば、あの「人間革命」が書き始められたのが高度成長真っ只中の1964年とのこと。「人間」と「革命」という、「戦後」の価値観世界観のキンタマを袋ごとがっちり握ったキャッチコピーを臆面なくふたつ重ねて堂々正面突破してみせたあたりは、さすが当時、怒濤のような折伏の波状攻撃で本邦世間、寄る辺なき恒産持たざるその他おおぜい相手の信者獲得合戦であっぱれ共産党と覇を競い合った創価学会、と唸らせられますが、思えばすでにその頃から、「××革命」といった惹句はあれこれ使い回されるようになっていた。「消費革命」「余暇革命」「レジャー革命」「マネー革命」「エレクトロニクス革命」……およそ社会的な局面での何か大きな変化を強調して煽ろうとする場合にその出番が回ってきていたらしい。このへんは大御所定番の「産業革命」から引っ張ってこられた重厚長大的「学校」「教養」系の文脈も重なっていたのでしょうが、政治的や政策的なたてつけで好んで使われてきている「改革」と比べると、同じ「革」の字が入っていてもやんちゃで弾けた印象が、どこか漂う胡散臭げな路上の詐欺師的気配と共に、ある時期まではまだありました。ただ、それも「IT革命」あたりが最後だったか、今世紀初頭にはすでに「革命(笑)」的なニュアンスと共に消費されるモードが一般的になっていたような印象ではあります。

 一方、「改革」の方はというと、例の「構造改革」が何度も変奏、都合良く転調されて、そもそもはかつての左翼界隈、未だソ連社会主義の先進国、明るい未来のお手本として呑気に奉っていられたところにいきなり喰らった国際的規模でのスターリニズム批判と、政府のかけ声だった高度経済成長が結果として具体的に日々その姿を身の回りにあらわし始めたことに起因して国内政治にもたらされた民意の地滑りに面食らっての迷走から、当時流行りのイタリアン左翼経由であわてて輸入してきたお助け舟の縋り藁的な語彙だったはずが、存外使い勝手が良かったのかその後イメージとして割と大きなものとして広く定着していったこともあって、「革命」よりはまだ現実的な確かさを感じさせることのできる、その程度に信頼してもいいかも、な語彙になったらしい。このへん、戦前それらと並んで使われていて、戦後はひとり忘れられていった「改造」などと併せて比べてみる必要がありますが、いずれにせよ何やら一発逆転、今ある仕組みをより良い方向に一気に変える、といった都合の良いイメージだけがどんどん水増しされて通俗化、安全にカジュアルに受け取られるようになっていった。このあたりもまた、「革命」という語彙にあらぬフリル、あの餃子のハネが考えなしにまとわりついてもゆく広角の歴史という意味での経緯来歴の一環、別途展開しておくべきお題にはなります。

 そのように「改革」の方が勢力を増してきた近年なのに、活字メディアの生産点におらす人がたは、編集者であれ記者であれ、なぜか今なおその「革命」というのを本の表題、雑誌記事のコピーや引札腰巻きの惹句などに案外するっと入れ込んだりする。まあ、それだけいまどき現役世代にとっては、「革命」にあれこれまつわりついてきたそれらフリル、餃子のハネの部分を切実に感じられなくなっていて、まあ、それはそれ、過去からめでたく自由になったあらわれなのかもしれませんが、ただ、同時にそれは知的な鈍感さのあらわれでもあるわけで、それらいまどきさらっと屈託なくあしらわれる文字面の「革命」は、昨今よくあるカタカナ表記の「カクメイ」がウォーターマークとして刻印されていて、カオナシのようにいまどきの情報環境にデジタル変調で最適化させられているようにも見えます。

 かつて、「革命」という字面を下敷きに「革田命作」というベタな筆名をでっちあげたのは、「ああ、革命は近づけり」のリフレインで知られる労働歌の作詞者、築比地仲助という御仁だった由。明治末年、その頃の大阪の熱気をはらんだ社会主義気分にうっかり反応した多くの名もない工場労働者のひとりだったようですが、文語体ベース七五調の月並みな路上演歌調とは言え、「起てよ白屋襤褸の児、目覚めよ市井の貧窮児」と、自分も間違いなくその中のひとりである世間一般その他おおぜいに向けてのアジテーションに特化した確信犯ぶりと、その作者名の字面に「革」をあしらったあたりのセンスには、漢字二文字の「革命」の辞書的定義と意味内容だけに収まり切れない得も言われぬ何らかの気分、それこそあの餃子のハネに通じるような余白に敢えて投じる生身の心意気もどこかにはらまれていたように感じます。少しあと、同じ大阪から爆発的な人気を博していったあの桂春団治、本名「革(皮)田藤吉」のようなどこか浮かれた「いちびり」気分の同時代感覚が、「革命」の「革」の字を介して二重写しに焼き込まれていた可能性。われらが日本語の漢字使いゆえのイメージ喚起力というのも、その程度に字面を介して眼から入るものだった部分はあるはずです。*1


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 ならば、話し言葉ならどうか。「かくめい」と、口にしてみる。なるほど、書き言葉の「革命」よりは、縛りはまだ薄いかも。にしても、やはりこれも日常普段使いの手軽な語彙というわけには、ちょっといかない。

 記憶の底をさらってみれば、こういう話し言葉の「かくめい」にまつわって思い起こされるのは、あれは学生時代、ということは70年代の終わり頃、いまからもう半世紀近くも昔のことになりますが、とある芝居の舞台、ズダボロの作業服を着た役者がひとりよろめきながら登場してきての絶叫一発、「かくめいやでぇ~」というその響き。定かではないものの確か黒テント、寒い季節は一橋大学の構内での興行だったと思うのですが、演目はすでにさだかでない。冒頭いきなりではなかったにせよ、何らかシーンの始めにカマされた鮮烈な印象も、何にせよすでに往時茫々、アテにならないことおびただしいのも今さらですが、ただ、その絶叫の続きが「ほんまもんの武装蜂起やでぇ~」だったことまで含めて、なぜかそこだけくっきりと、すでにおぼつかぬ過去の記憶のおのが引き出しにしまわれてはいるらしい。

 なまじその頃、芝居なんてものにうっかり首突っ込んでしまっていたせいもあるのでしょう。実際、アングラなどとも呼ばれた小劇場運動そのものが、そのように「革命」に格別な意味を込められるような言語空間によって支えられていました。政治運動としての学生運動を自分ごとの当事者として体験していた世代ではすでになかったけれども、彼らがその生身を介して自分たちの〈リアル〉を制御するそれなりに切実な語彙やもの言いとして使い回していたのとひとまず地続きな言語空間を、自分ごととしては一歩遠くなっていたとは言え、年上の生身を介してその一歩の距離感をまだ直に感応できる程度には彼らと「関係」を持ち、「場」を共有する半径に身を置いていたこちら側もほぼそのままに支えてしまう構造が、現場の「先輩/後輩」というタテの約束ごとと共にまだ生きていた。先の餃子の比喩で言えば、ハネはまだついたままだったかもしれないけれども、しかしそのパリパリ感はすでに焼き立てのものではなく、澱み始めたまわりの空気を吸収してしんなりと頼りないものになり始めていた状態。いや、冷めかかった餃子を焼き直す際に足した水に混じった小麦粉が偶然ハネに、というハネ創生譚を信じるなら、「関係」も「場」も、そのはらんだ初発の熱が冷めてきたゆえにハネの部分を意識的に作ろうとして作らねばならなくなっていた、だからこそそれら「革命」に象徴される一連の語彙やもの言いによって編制されていた言語空間をあの手この手で支えようとする必要もあった、ということだったのかもしれません。上演そのものよりも言葉によって語られる上演がさまざまに複製、増殖されてゆき、それらが上演の現場の周辺に厚く堆積することで、上演もまたそれに規定され返してゆく連鎖のはじまり。エコーチェンバーという昨今よく使われるもの言いにも通じる、言語空間と情報環境の併せ技での自家中毒的な濃縮、蠱毒化の過程です。

 でも、それは何も芝居に限ったことではなかった。音楽ならばモダンジャズからフォークやロック、映画なら外国映画日本映画を問わず、さらに各種美術やアート、写真やデザインやグラフィックなどまで広く含めて、それまで自明に中心に置かれて権威とされていた文字・活字ベースの創作ジャンルではない、それ以外のいわゆるサブカルチュア、ユースカルチュアと呼ばれたような、いずれ上演を本体とする社会風俗的な事象のまわりからそれら蠱毒化過程は前のめりに始まっていました。その内側から当事者目線と現場感覚に寄り添いながら言語化される場合には、程度の差や気分の濃淡、質の良し悪しはあるにせよ、いずれそのような生身を介した前提が「そういうもの」として自明に共有されていたことは間違いない。だから、それらの表現に接する場合には、「革命」や「かくめい」から発されるさまざまなできごとや固有名詞その他の連なり、個々の要素の脈絡についてある程度まで自前で見知ったものにしておかないことには、つまり「勉強」をしないことにはそれらを「ほんとうに」楽しむことはできない――誰に命じられていたわけでもないのに、ひとり勝手にそんな風に感じていたものです。



 そう感じさせられていた、所詮若僧時代のそういう受け身の態様だったという面も含めて、当時その頃のそれら表現沙汰には、あたりまえに知っていることが前提にされている、つまりそのような「教養」の一部としてそれら「革命」にまつわる知識や断片のあれこれが自明に組み込まれていました。そしてそれら表現を創る現場の側もまたそのことを言外の前提としながら自らの表現を造形しているのだ、という事情まで含めて、上演に接する側にも素直に察知されるようなものでした。だから、それら「教養」を知るように赴いてゆく。当時の情報環境のことですから、それも主に活字の本や雑誌を介しての「勉強」になるわけですが、いわゆる「思想史」的な「教養」の茫漠とした海にうっかり漕ぎ出してしまう、そのはじめの一歩というのも、まあ、たかだかそんな程度のこと、今で言うならサブカル体験を引き金にしたおたく化への第一歩、ではありました。*2

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「私は三十七年の一月、上京してはじめて社会主義の演説会を傍聴し、またはじめて堺、幸徳、安部磯雄、木下尚江、西川光二郎氏らの風丰に接した。閉会に当って一人の青年が演壇にのぼり、社会主義協会の入会者を募る短い演説をおこなったが、それこそ文字通り烈火のような熱弁なのに驚かされた。私はもちろんその場で入会し、マルクスの像を浮彫りにした円いニッケル製の徽章を胸につけて内心すこぶる得意であった。」

 未だ世に出る前、何者でもない名もなき若い衆だった頃の荒畑寒村、18歳の頃の追憶から。明治37年というから1904年。「演説」というのがそんな若い衆をどれほどわくわくさせられるものだったのか、その時代としてもありがちな記述といえばいえるのですが、ただ、若き寒村先生、続いて次のような視点をすんなり引き出せるあたりが、やはり書き言葉ネイティヴの「学校」量産型知性ではなかった野良育ちの証しで素晴らしい。

 「今もなお想起するを禁じ得ないのは、演説会の後で青年会館の一小集会室に開かれた新入会員歓迎会の趣きが、恰もキリスト教の大挙伝道に際して開かれる求道者の歓迎会に、いたく似通っていることであった。」

 その頃の「演説」を上演する集まりは、キリスト教の「説教」とよく似た印象だった、本筋の催しのあとで、必ず「懇親会」「歓迎会」といったその場に参集したその他おおぜいを相互に親しく「関係」を持たせる「場」が設定されていて、そのようなたてつけがとても似通っていた、と素直に認識しています。本邦近代に西欧由来の「普遍」というやつを空挺部隊の落下傘降下のごとき抗えなさで降臨させた二大打撃部隊、マルクス主義キリスト教がくっきりと合焦できていて、そしてその内実に一見筋違いに見えるものがあれこれなにげにうっかり相乗りしていたことも、また。

 「会長の安部磯雄氏から歓迎の辞とともに、会員はつねに操行を正しくし苟くも粗暴のふるまいがあってはならぬ、殊に男女間の関係において謹慎すべき旨の注意をうけたのは、いよいよもってキリスト教的であった。また一人の書生が立って藤村の新体詩『お葉』を朗吟したのなども、これまた求道者歓迎会で賛美歌の独唱などがあるのを想い出させた。後にその名を知ったのだが、この新体詩を朗吟した青年はまだ早稲田大学の文科に通っていた白柳秀湖、烈火の如き雄弁に驚かされた青年は山口孤剣その人。」

 社会主義キリスト教新体詩と賛美歌、演説や雄弁と「男女間の関係」についてのヤソ臭い説教、それらがみな混然一体、同じ教会という「場」で融合しているあたりが当時の同時代気分ではあったのでしょう。そしておそらく、そこに宿っていたのも、ここでこだわっているところの「うた」ではあったらしい。ならば問題は、その融合を当時、その現場で実際に体験していた個体の生身に、果してどのような「うた」がどのように宿っていたのか、そしてそれはどういう「関係」を互いに紡ぎあって、共に何を〈いま・ここ〉の〈リアル〉として感受していたのか、ということになってゆきます。

 ハネなき餃子は、もはや期待される餃子ではなくなっている。生身の呂律も昂揚も、刹那に腰上げるに足る一片の心意気すらも伴えなくなった言葉としての「革命」などもまた、すでにあるべき革命、時に応じて自在に引き出し眼前に立ち上がらせるべき手もと足もとの〈リアル〉とは遠く隔離された干涸らびた別ものに変成され、この眼前21世紀のデジタイズ無双へと粛々と移り変わってゆくらしい情報環境に去勢されたまま埋もれています。

 「もし私が海軍造船廠の職工とならず、或は労働生活を体験したとしても、開戦直前の過激な作業と職工の劣悪な状態とを経験する機会をもたなかったならば、私の一知半解な社会主義の知識ではただちにその信者とはならなかったかも知れない。だが、日露戦争の危機に際して起った非戦論の主張に対する共鳴同感は、私の生活体験から生じた感傷と漠然たる憧憬とを、将来の運命を決定させるに至った理想と情熱とに燃え上がらせたのである。」(『新版・寒村自伝』筑摩書房、1965年)

「速記」の力、「おはなし」の生産点



 立川文庫の生産点における速記の役割に着目しながら、さらに執拗にそれを微分し、「創作」の要素へと解き放ってゆくことで、猿飛佐助や霧隠才蔵など、下敷きにされていた講談・講釈由来の「おはなし」には含まれておらず、またそもそも宿りようすらなかったような荒唐無稽なキャラクターを闊達に生み出してゆくことになったらしい点に鋭く合焦し、指摘していた橋本治の知的腕力の剛直さについては、少し前に触れました。それを足場にもう少し、そこにはらまれていた問いをほぐしてみます。

 速記を介して記述され、紙の上へと変換された「記録」は、しかしそのままではその速記者以外にはまず読むことのできない、そういう書きものらしい。それを広く開かれた一般的な「読み」に耐える文字にするには、他でもないその速記者自身が自ら速記した記述をもう一度読み、その上であらためて一般的に使われる書き言葉の文字へと変換しなければならないようなのです。

 しかし、そのように速記の記録から速記者自身の手によって文字へと変換された記述であっても、そのままではまだ普通の人がそのまま読むことのできるような書き言葉にはならないらしいから、話はややこしくなります。

 普通、速記による会話や談話、座談の記録というと、その場の話し言葉を「正確に」記録したものである、という風にわれわれはイメージします。その場で速記されたもの――よく「ミミズののたくったような」といった形容もされていたあの独特の書体による記号の群れですが、あれを解読して文字にしてゆくに際しては当然、そこに何か明快な法則やルールが文法のように介在していて、それが「速記術」を根底から支えている、と。

 でも、速記の「記録」というのはそんなテープレコーダーのような「正確」さを伴うものでもなく、その場で実際に音声としてしゃべられた話し言葉を「そのまま」に、時間的な経過も含めてその流れの通りに「記録」したもの、というわけではないらしい。

 その速記した書きものを文字へと変換してゆく過程では、必ずその速記者自身が手がけるたてつけになっている。なので、時には自分が実際の文字におこして「反訳」する時のために便宜的に添えた覚え書きや補足的な情報の類までも、創意工夫で差し挟んであったりする由。これはパソコンのモニタ上のWordで文章作成の作業をしながら「コメント」をバルーンにして挿入してゆくような、ああいう感じなのか、あるいは古本などに見かける行間や余白に記された書き文字による雑多な「書き込み」、さらに不審紙や付箋の使われ方などとも、どこか通じるものがあるのかもしれませんが、いずれにせよそのようなわけで、自分以外の者の記した速記は、たとえ同じ師匠から同じ流儀で習った速記者によるものであっても、おいそれと簡単に反訳できるものではない、それくらい速記者自身の個性が強く関わってくるものだったのだそうです。

 このへん、単にいまさら知った自分のもの知らずのせいかもしれませんが、現場で速記を手がけるだけでなく、あの「ミミズののたくったような」記号をとりあえず文字に変換してゆく反訳までも含めて、基本的に同じひとりの生身の個人の手作業に属人的に規定される部分が大きいということは、「速記」の内実についての理解がそれまでと変わる、ちょっとした驚きではありました。


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 絵や画像といったいわゆる「映像」系情報と、それに附されるキャプションや説明といった文字情報との関係、あるいは映画の字幕や、昨今だとwebを介した動画コンテンツに附される「弾幕」と呼ばれるコメント群など、あれこれ想起されます。あるいは、かつて中学校あたりの教室で流行った、授業中に教師の眼をはばかりながらその教師や授業内容についての落首ないしはツッコミ的な内容を記した紙つぶてを廻しあうやりとり(「手紙まわし」とか呼ばれてましたっけ)の光景なども。いずれわれわれ生身の個人が眼前の現実に接する際の情報解読の仕組みの同時並行性と、それらが複合しつつ身の裡に〈いま・ここ〉の〈リアル〉があやしくもふつふつと宿ってゆくからくりについての、おいそれとはとらまえにくい〈まるごと〉の「歴史」の問いにも滔々とつながってゆくように。

 もちろん、テープレコーダーに記録されたテープを再生しながらのあの「文字起こし」――いや、今だともうICレコーダーやスマホ介してのデジタイズされた録音ならぬ「音声データ」をそのまま自動的に文字化してくれるアプリに通したり、さらにはAI任せに丸投げしたりで、いきなりモニタ上に可視化させるのも半ばあたりまえになりつつあるようで、話し言葉を文字化してゆく過程に生身の手作業が直接介在できる余地すらなくなってきているみたいですが、とは言え、たとえそれらいまどきの話し言葉から書き言葉への変換作業においてさえも、音声そのままを機械的に文字に置き換えたところで、それがそのまま書き言葉として可視化の一丁上がりにならないことは、誰しも経験的に思い知っているはずです。その程度に、生身の日常においてやりとりしている耳を介した話し言葉と眼を介して「読む」ことのできる書き言葉の間には、同じ言葉とは言え相当な違いがあることはすでにわかっている。なのに、いざ「速記」と聞くと、どこかテープレコーダーのような機械的な「記録」と、それを一定の文法や規則によって粛々と「解読」してゆく作業をひとくくりにイメージしてしまう。思えばこれもまた、〈まるごと〉の現実と、言葉によって再編制された〈リアル〉の関係についての、音声を記録する過程を外在的な機械に依存することがあたりまえになって以降の体験に規定された想像力のありようの一端なのかもしれないのですが。


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 「日本に速記術が誕生したのは明治十五年である。「日本傍聴記録法 楳の家元園子」という見出しの記事が九月十九日の時事新報に掲載された。創案者は岩手県田鎖綱紀で、当時たまたま麹町元園町に下宿していたため「元園子」という戯号が使われた。」

 この田鎖が講習会を開催し、自身の創案した速記術を広めてゆく。「開講式は十月二十八日、日本橋の小林茶亭というところで行われ、十一月一日から六ヶ月の日程で講習が始まった。会場は、朝が神田の東京法学院、夜が麹町の三橋家で、毎日二時間ずつ予定どおり進行した。翌年五月五日には、神田の多摩川茶亭で卒業証書授与式が行われている。」 受講生の数は正確には不詳で、二十から三十人前後、朝晩あわせてせいぜい六十から七十人内外だったと推測されていますが、その中から「定期試験の結果卒業した者は二十四人というのが速記界の定説」とは言え、「実際に速記者として実務に携わった証拠の残っているのは、若林酣蔵、林茂淳、市東謙吉、酒井昇三の四人に過ぎない。」 速記術を身につけ速記者になるのは、当時それくらい狭き門だったようです。

 「筆記のための記号を覚えることはできても、実際にその記号を使ってなまの会話を書き取ることができなければ、運用の術󠄂を身につけたということにはならない。そのために、卒業生たちは、若林を中心に筆記法研究会を組織し、田鎖から学んだ記号をあれこれいじくりながら、音の書き取り方の研究を続けた。」

 若林酣蔵以下、いずれも本邦の速記の歴史をたどると必ず記されている斯界のビッグネーム。国会開設を期して「議会」の「議事録」というそれまでと違う公的な意味を附与された「記録」の必要が切実に眼前の問題となりつつあった時期、彼らもまたそのような新たな公共、国民国家的な目新しい〈リアル〉を背後にした権威への上昇志向やそれに伴う実利も期待しつつ、同時代の「立身出世」の道具として速記術を身につけようとしていました。

 彼らの出自来歴に没落士族や江戸や大阪の近郊農村部に宿った商業資本家の子弟が多く見られることは、速記術を現実に使い回す現場においてもそれら出自来歴ゆえの仰角の視線とモティベーションとが、なにがしかのルサンチマンと共に必ず切実に介在していたであろうことを示唆しています。このことは、あの「言文一致」とあっさり呼ばれている、リテラシーの国民的規模での一大変容過程においても陰に陽に影を落していたように思えるのですが、そのへんはまた別途、展開しなければならない大きな問いになります。

 速記を介してしか、講談の文字化はできないと速記者は考えていたようです。そのような認識は、講釈師による実際の上演こそが「本物」であり、速記を介して文字化し複製化された商品である読みものとしての講談は「にせもの」ないしは「代替物」であるという序列の感覚に裏打ちされたものでした。あくまでも寄席における上演、実演こそが講談である、という確信は、当時の講釈師の大方とも共有するものでした。

 と同時に、そこには速記に携わる速記者たちの自意識の特権性も、さらに上書きされてからんでいたようです。

 「議会」や「法廷」の「記録」を作る新たな手技を身につけた特殊技術者である、といった自意識が、半ば必然的に特権的な意識を醸成していったらしいことは、講談や落語の速記に携わることを「軟派」と称してどこか見下した調子があったことからもうかがえます。速記の先行きが未だ見通せず、「硬派」の正業としての公的な仕事ではとても喰えない状況で、収入からいえばそれら副業――講釈や落語など芸能だけでなく、政談演説や講演会、作家の口述筆記や芝居の上演記録など、速記術そのものの目新しさやその実際の効用が重宝されてさまざまに声がかかる雑多な手間仕事からの方がはるかに多いのが実情だったのにも関わらず、です。

 加えて、その「記録」が「正しい」こと、現場で話された通りの「記録」であること、という絶対的な正義の基準があらかじめ共有されている分、本質的に融通無碍な話し言葉の語りを文字化してゆくことに対する自省や相対化がうまく働かなくなる限界もまた、現場にはらまれていました。速記のための記号をまず機械的に覚えること、そして、耳から入る話し言葉を音声として認識し、それを手指のなめらかな動きに連動させて書きとめてゆく作業を繰り返しながらひたすら身体に叩き込んでゆく修業過程の苛酷さも、それら自省へと向かうモメントを意識化させぬ方向に働いたようです。

「あとは、自分の筆記した記号が正しく読みとれるように書けているかどうかの確認作業である。演説会や説教を書きに行くこともしばしばだった。(…)自分自身筆記ができる自信を得たとしても、今度は、記録を必要とする立場の人に向かって、これこのとおり立派に記録ができますというところを、実物によって立証してみせなければならない。そのためには、勝手に講演会に臨んで筆記したものを後援者その人に贈呈することまでやった。」(竹島茂『速記曼荼羅鉛筆供養――大河内翠山と同時代の速記者たち(上)』STEP、2004年)

 「音の書き取り方」は、講習会で覚えた「筆記のための記号」だけでは実際の運用の役に立たない。だから、それを「なまの会話」、つまり現場で流れる融通無碍な話し言葉の〈いま・ここ〉のやりとりをその「筆記のための記号」を使って手もとに書き取ることができるようになるのが、まず第一。その上で、さらにそれを自ら読みとって文字へと反訳、変換し、その場に臨場していた現場の当事者によっても妥当な内容であると評価し、承認される過程をくぐった後に初めて、速記原稿として実用に供される。

 これはつまり、現場に赴き取材し、メモをとり、それを起こして素材にして何らか草稿にまとめて、さらにそれを第三者的な立場の文字表現の専門家――かつての新聞において「記者」と名乗っていいのはこの立場にある、一定以上に読み書きのリテラシーのある者だけでしたが、そんな彼らに監修、編集してもらって初めて成稿になるという、当時の新聞報道の記事の生産点における作業過程とほぼ同じ。眼前の現実をどのように文字化し可視化してゆくか、という、当時さまざまに求められ始めていた同時代的な需要に対する対処の手立てをそれぞれ模索してゆく大きな動きの中にプロットしてゆけるものでもありました。


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 語られた落語や講談の速記をそのまま起したところで、それは「読みもの」になっていないことは、速記講談の制作現場においても、当初から自明に了解されるものでした。口演された話し言葉そのままを速記を介して書き言葉に変換しただけでは読まれるべき文章にもなっていない。だから、そこにさらに手を入れて読むことのできる文章にして、商品としての「読みもの」の体裁を整えなければならなくなる。

 そのような最終的に書き言葉として最終的に整えてゆく作業は、「議会」や「法廷」の速記記録を作ってゆく速記の作業過程においても「校閲」「編集」などの手順によって担保されていたのですが、彼ら主流派意識の強い「硬派」の速記者たちには、それが「軟派」の速記者たちが稼業として必然的に遭遇せざるを得なかった「読みもの」としての書き言葉による文章に向けて「校閲」「編集」を意識的、かつ方法的にしなければならないという認識には向かいにくかったらしい。彼らにとっての速記術󠄂とは、話し言葉を「正確に」「記録」にしてゆく技術が経験と共に下支えする素晴らしいものであり、それはまた「議会」の権威に裏打ちもされた誇らしいものでした。

 話し言葉は書き言葉とは違う。話されている言葉は、そのままでは読まれるに足る書き言葉の文章にはならない。けれども、その同じ話し言葉は、耳を介して「聴く」限り、聴くべき話し言葉の語りとして、「おはなし」として受け取られる。しかし、とは言うものの、それを速記を介してそのまま書き言葉に移したところで、それが眼を介して「読む」に値する書き言葉の「おはなし」に自動的になるわけではない。

 落語や講談の速記(と称される文字化され文章化されたもの)を「読む」ことで、まるで演者が実際に語っているように読めると〈リアル〉に感じたらしい当時の読者たちの不思議な認識のからくりにしても、うまく「語っているような響き方をする」感覚を読者の内面に起ち上がらせるフィルター、あるいはコンバーターのようなものが、その書き言葉の「おはなし」の生産過程にもどこかで共通して介在していなければ、そのような〈リアル〉としては結像し得なかったはずです。

 「講談速記は下卑たものだ俗なものだと攻撃される、下卑たものには違ひない、嘘もある法螺もある、併し民度の上から今の社会には丁度講談速記が適当して居るのだ、大声は俚耳に入らず、名家の小説よりは講談本が売行の多いのでも分る、東北地方では貸本屋の六分は講談本ばかり、房総の海岸あたりになると八九分まで講談本で店を飾って居る。」(佃與次郎『速記の話』佃速記塾、1937年)

 それは、円朝なり伯山なりの口演に実際に触れていたから、その声なり語りなりが耳の底に残っていたから、といった実経験を下地とした再現性が担保する〈リアル〉であったという聴き手側だけの解釈では説明がつかない。もう少しゆるく拡げて考えて、実演の口演、上演というもので語られる話し言葉を聴くという経験がある一般的な変換プロトコルを準備して共有されていた、と考える方が自然でしょう。そしてそれは、速記録から反訳したものをさらに「校閲」「編集」の過程をくぐらせたのち、ようやく書き言葉の文章へ整えてゆき得る一連の作業の当事者たちの裡にもまた、同じく共有されていたものだったのではないか。

 耳で聴くことと、眼で読むことの間を、そうと自覚しなくても同じ「おはなし」としてスムースに変換してつないでゆける仕掛け。ごくゆるやかな意味での言文一致的な、書き言葉の文章に寄せたところでの「おはなし」文体がすでにある程度できていて、それを眼にして「読む」ことで、耳で聴く話し言葉での語りに接した際に感じる〈リアル〉もまた身の裡に現前的に喚起される、という過程。

 耳と眼が、おそらくそれまであったようなつながり方ではない、それらと少し違う感覚や意識を喚起するような新たなつながり方をしていった過程が、近世末期にはすでに始まっていたのでしょう。それは、「目に一丁字ない」ような人たちの生身の身体にはそれほど速やかには宿らなかったけれども、ある程度文字を「読む」ことを覚えてしまったような人たちの眼を多く介するようになったことで、耳で「聴く」ことを主にしながらそれまで身の裡に宿っていた〈リアル〉にも新たな「編集」「脚色」が介在するようになる。それは生身の感情生活のある種の序列化であり、情報環境の変貌に応じた再編制であり、いずれ何らかより大きな整序へと向かうような力の加わり方ではあったのでしょうが、しかしそれがあったからこそ、「おはなし」的な感動の〈リアル〉もまた、文字読む眼を実装した生身たちを介しながら時空を越えて現前する/できるようにもなってゆきました。

 眼の放恣、と言われてきたような、近代の伸張、拡大に伴う生身の感覚の転変。とは言え、眼で「読む」ことのできる「おはなし」というのは、音読でも言わずもがな、まして黙読でそのような読み方が概ね誰にとっても可能になるためには、そうなれるだけの条件が日々を生きる生身の呼吸する情報環境によほどうまく揃って伴わなければ、現実にはむつかしいことだったように思えます。

 橋本治が合焦してみせた、立川文庫の生産点における自由闊達で荒唐無稽な想像力を宿した山田阿鉄の生身に宿っていたらしい「監修」「脚色」「編集」といった創作的な色合いの濃い作業の内実についての言及、その重心のかかったあたりをあらためてもう一度示しておきましょう。

 「彼は、玉田玉秀齋の講談を一々速記したのではなく、一々筆記して行くだけの腕はないから、要約して筆記してしまった。既にここでアレンジ(脚色)というものが出て来る。ここのアレンジですごいのは、速記能力はないからアレンジしちゃったという、そのところ。そして、ここのところで重要なのは、何故そういうものが平気で通用したのかというと、速記にはシロートであった山田親子は、講談というものをよく知っていたということ。(…)「大体のところは分っている」という、その知り方ですね、重要なものは。(…)講談が話されているのを聞いて大体のところは呑みこめてしまうだけの能力(“素養”と言いましょうか)、それがあれば、文章としてまとめ上げることは出来るんですね。そのまとめ上げたものを“速記”と唱えればいい訳で、こうして玉田玉秀齊の一家の中では速記の質というものが変えられて行った。」」(橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』、徳間書店、1986年) 

 このような作業はしかし、当時の速記が話し言葉を書き言葉へと変換してゆく過程そのものに、すでにあらかじめ埋め込まれ、胚胎していたものでもあったらしい。速記に携わっていた速記者たちが、自分たちが仕事としてやっていた作業にはらまれていたそのような内実にどこまで気づいて、かつ方法的に自覚していたのか、それは正直わからない。おそらく大方は無意識に、そうと思わず「そういうもの」として、ただ日々の仕事としてやっていたのでしょうが、しかし、そのような個別具体の事情とは別に、速記と速記術というのはその程度に創作的な、敢えて言えば社会的な「おはなし」を編み出してゆく上でのそれなりに切実な役回りを、同時代の情報環境の変貌の過程において、期せずして果していたようです。




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