やってくるまで
「お兄ちゃんが欲しい」と娘が言いだしたと妻から聞いたのは、娘が幼稚園に通いだしてまだ一月もたたない頃だった。
通っている園は、縦割り教育である。同年代(最年少の三歳児未満クラス)のみならず、お兄さんお姉さんから日々たくさんのことを学び、そして憧れが育つこともあるだろうと思った。筆者としても三人兄弟の長男であり、「上のきょうだいへのあこがれ」というものは痛いほどわかった。しかし実際問題として令和七年の筆者が知る範囲での常識で考えると筆者と妻の間に娘の兄を授かることは難しかった。
妹や弟ではどうか。前述したように筆者は三人兄弟の長男であって、それは今の筆者を形作った大切な要素だ。弟たちにとって誇れる兄たらんとして、実際できたかどうかはともかく、そういうモチベーションになったのは間違いなく、他方でこれは弟に任せたぜ、ということももちろんあった。今後AIが台頭していくとして、だからこそ生身のコミニュケーションができる存在が身近にいるというのは貴重になっていくのではないか、という思いもあった。
その筆者の弟は折しも娘と一つ違いのお嬢さんを授かっており、筆者も遠方のおじとして「みてね(家族間画像共有アプリ)」に掲載される画像からその成長に都度目を細めていた。娘においてはこの従姉妹を「血の繋がらない妹」として考えてもらい、その姉妹関係性のプラスの部分だけをお互い享受すればよいのではないか……。とも筆者は目論んでいた。
娘はご飯ももりもり食べ、興味を示した習い事はしてもらっている。今後私立にその進路をとりたいということもあるかもしれない。筆者がその実力からすれば分不相応な禄を食んでいる身とはいえ、バランスを取るかのように分不相応な分譲マンションを購入してしまったこともあり、家計はいつもリアルを手に入れるんだというか世紀末の流行色というか、要するにギリギリなのであった。個人事業主として大車輪の活躍を見せてくれていた妻も娘の誕生以来はもっぱらその育成に主軸を置いており、また個人事業主の辛さ、育児給付金は支給されない。コロナ禍が落ち着いてきて様々な活動が活発化し、一方で物価高はとどまることを知らず、今のこの暮らしを維持できるかどうかも厳しさの中にあるというのが本音であった。
なによりも妻である。妻は筆者より年下ではあるが母となって以来の気力体力の衰えは一人の命を体内に作り出しそして送り出すということの凄まじさを筆者に感じさせるに十分であった。再度の妊娠となれば医学上高齢出産となり、様々なリスクは娘の時より増加し、それは多く妻に降りかかる。「おいらっちまた子ども欲しいんやけど〜♪」などと言えるべくもない。
そして娘だ。本人にとってはほんの思い付きの、明日になったら忘れているような「お兄ちゃんが欲しい」発言で日々のちょっとした贅沢は減り、愛情のリソースは減少し、もしかしたら将来の進路も狭まってしまうかもしれない、ということがあっていいのだろうか。いや、物覚えのいい娘のこと、「お兄ちゃんをお願いしたのに弟/妹がきた」と怒る可能性だって大いにあるだろう。そんなことがあるたびに「あなたがお願いしたから……」と責任を押し付ける父親になってしまわないだろうか。
「お兄ちゃんが欲しい」発言を報告してくれたあと妻は、「きょうだいがいた方が娘は楽しいのではないか」と言った。こういう時、妻は言外に「私も楽しい」という意味を含んでいる。そして娘が楽しければ筆者も楽しく、妻が楽しいのであればますます答えは見えていた。先述の高齢出産から考えると、今度は少しでも早いほうがいいだろうとも考えた。何しろ我々は第一子を欲してから授かるまでにそれなりの時間がかかってしまっていたのだから。
梅雨が去った頃、初夏とは名ばかりの業夏の朝に第二子を授かったことがわかった。これは後で産婦人科の先生に聞いたことだが、第一子が胎内を次のきょうだいのために整えていてくれたかのように、第二子以降は授かりやすくなるということはままあることだそうである。その日は娘が夜間の寝苦しさからかなかなか起きず、自分が遅刻ギリギリで出発したものだから朝ごはんを食べそこねてボーっとした頭で事態がしばらく飲み込めなかった。
父になる。いや、今も父なのだが。二児の父。改めて、責任の重さが押し寄せる。人一人を一人前に育てられるかすらまだわからないのに二人目まで!? 果たして大丈夫なのか。誰かに相談したかった。しかし、この時期の胎児は非常に不安定だ。そんな悩みも、自らの胸のうちに閉じ込める他なかった。嬉しさはある。しかし正直なところはじめは、目に見えない第二子よりも、目に見える妻と第一子の方が心配だった。もしも万一、母体か、お腹の中の子どもかという事態があったら、筆者は母体を選ぶ、と妻には伝えた。なにか生命を実感してしまったら言えなくなってしまいそうだから、今のうちに言っておいた。
入院まで
娘や両親を含む家族、同僚には安定期に入ってからの報告にすることに決めた。我々夫婦共通の好物である寿司を始め、様々な食事制限が始まる日々も再び幕を開けた。妻の実家への帰省、娘の念願であったアンパンマンランドの訪問が済んでいたのは幸いであった。
一方で、既に旅程を確保していた福岡インターハイのバスケ観戦は諦めることにした。結果論になるが、特に注目していた開催地元校の福大付属大濠も福岡第一も栄冠を手にすることはなく、そもそも灼熱の会場に立錐の余地もなかったというから、これは我々家族を早くも第二子が守ってくれたと言えるかもしれない。同様に昨年家族の新たな楽しみとして芽生えた鹿児島レブナイズの観戦も控えることにした。
娘は何かを察したかのように、ボール遊びからメルちゃんを使っての赤ちゃんのお世話がメインの遊びとなっていた。夏の間は食がさらに細くなり、ゼリーが妻の主食となった。様々な味と食感のゼリーを食べながら、涼しい居間でバスケ日本代表を応援していた。夏バテ対策と言えば鰻……催奇性があるとされており、妊婦には禁忌なのである。あらゆる海産物を愛し鰻もその例外ではない妻を見るに忍びなく、我々は土用の丑の日うどんをすすることにした。
体調の変化と殺人的な日光は「徒歩通園で親と子の絆を深める……♡」とか言っている場合ではなく、バス通園に変更した。その分の運動と体力をつけようと、妻はまだそんなに目立たないお腹でエアロバイクで適度な運動に励んでいた。
第二子の妊娠の何が違うか。第一子がいることである。当たり前の話なのだが、これをひたすら実感し続ける日々でもあった。第一子が妻のお腹の中にいるときは例えば調子が悪ければ妻はすぐ横になってくれたらよかった。ゆっくりしてくれたらよかった。筆者はそれに合わせて自分の過ごし方を変えればよかった。
しかし、幼稚園に通う娘がいるとなると、そうはいかない。日中筆者が隣町で働いている間、妻は妊婦である前に「母」でなくてはならなかった。甲斐性の無い筆者はベビーシッターを手配することができなかった。幸い娘はちびっ子にありがちな体調不良の早退はほとんどなく、その場合も基本的には筆者がお迎えに行くことができた。
所謂安定期が訪れ、しかし妻の体調という意味で言えば全く安定はしなかった。今回の妊娠では妻はひたすら悪阻に苦しめられていた。同じ人が妊娠するのでもこうも違うのだから、必勝の妊婦テクニックなんて存在しないのだ。そんな中でも、娘は大好きなママに遊んで欲しがるが、妻は気持ちは愛でてあげたくとも体がついていかなくなることが増えた。
娘に、お姉ちゃんになることを伝えた。小首を傾げて、「おねえちゃん?」と言った。そうだよ、と言うと、今度は小さな指を自分のこれまた小さな鼻にあてて、「おねえちゃん?」と言った。笑顔であった。また、そうだよ、と言うと、娘は妻のお腹を撫でて、「おねえちゃんだよ~」と呼び掛けていた。お兄ちゃんじゃないなんて、ということは全く言わなかった。
同じころ、両親にも伝えた。娘の頃はコロナ禍で、お互い医療従事者であることもあって、対面できたのは満四カ月になった頃。(「みてね」で写真は共有していたとはいえ)今回は新生児の頃から堪能できそうだと、終始ホクホク顔で報告を聞いてくれていた。妻がこよなく愛するお寿司をめっきり帰省した時の外食でリクエストしなくなったので訝しんではいたようだが。
さて今度は職場に、となったときに、筆者は深刻な顔のスタッフに呼び止められた。今日もきびきび働いてくれていたが……なんだろうか? 筆者が視界に入るのがもう耐えられないと退職願を出されたらどうしよう……。引き止め方を逡巡しているうちにスタッフが筆者に告げたのはご懐妊、そして安定期に入ったことであった。適当なそばの椅子にお互い座りながら聞いてみると、予定日は我が子と四日違いであった。
嬉しい報告を聞けてこちらも大変喜ばしい。困ったことがあったら何でも言ってね! 皆に報告をする? するなら次の全体ミーティングの時でいいかな? ボスに報告をするときは……。僭越ながら同じ部署の先輩、親としての先輩としてやっと他人に報告出来てほっとしたであろうスタッフからどんどんと出てくる疑問に答えながら、脳のもう半分で筆者は静かに焦っていた。
自分の育休を見越して彼女に引き継ぐ形で長いスパンの仕事の段取りを少しずつ組んでいたところだったからである。
このままでは我が社では事務という概念が無くなってしまう――改めて、出産とその後についてのプランを関係者で詰めていく。
業務については先ほどのスタッフから筆者がいったん引き継ぐことになった。同時に採用計画を進め、人員を補充してバックアップする。新規採用のスタッフがある程度業務をこなせるようになったらそのスタッフに業務の引継ぎをすすめ、筆者も二週間程度育休を取得し、以降は在宅勤務や時短を組み合わせながら働いていく、という感じだ。
家庭においては実家、ことに母に最大限世話になることにした。母はパートタイマーとして現在も働いているが、シフトひと月分をまるまる休んで入院準備やその間の娘のケア、退院後も同様にフォローしてくれることになった。恐縮していると「ババ休を一度取ってみたかった」ということなので存分にお言葉に甘えることにした。「生まれようとする孫、生まれたての孫、それに触れられることが一番の報酬」だとも。上記のスタッフの妊娠の経過による体調不良によって筆者がフォローで休日出勤するときなども父が車を走らせ、妻子の面倒を見てくれたりということも実際にあった。産後はちょうど幼稚園が春休み期間に入ることもあり、しばらく実家で過そうということにもなった。
妻の体調は低いところで安定はしてきて、固形物も食べられるようになった。今回彼女がすさまじかったのは、遺伝要素があり(父方母方共に糖尿病のキャリアあり)、娘の時に既往歴がありながら、妊娠性糖尿病にならなかったことである。どれだけの節制と努力があったのか計り知れないが、そのため早期入院することもなく、娘とたっぷり時間を過ごすことができた。しかし、規格外の大きさの胎盤はお腹の中の子どもにしっかり栄養を送ってくれたものの、尋常ではない悪阻を結局出産のその日まで与え続けてもいた。
娘はお姉ちゃんとしてこうしたい、ああしたいと演説よろしく我々夫婦に熱っぽく「姉としての理想」を語るときもあれば、急に聞き分けが悪くなったり、子どもは自分がいるから赤ちゃんはいらないでしょ? と聞いてくるなど、三才児なりの複雑な胸中が垣間見られた。そんな娘にある日ケーキが与えられた。
生まれてくる子の性別が明らかになる、ジェンダリービールケーキである。妻の手作りであった。ケーキの中の果物で性別が分かる形にした。妻が事前に検診で性別を告げられ、娘と筆者はこのタイミングで性別を知ることになる。
結果は、ベリー。第二子も生物学上において女の子であるということが明らかになった。娘にも、妹がやってくることを改めて告げる。娘はにこりとしたあと、お気にいりのお絵かきおもちゃに何かを描き始めた。

それは少し先の我が家の想像図であった。皆のハートがときめいているその絵は力強く、祝福に満ち溢れていると感じた。一瞬でも「いよいよ家庭内多数決が行われた時、完全に負けそうだ」と思った自分を恥じた。
入院
妻の入院当日、筆者は仕事であった。入院は午後からである。既に前日から母が我々の家にやってきてくれている。入院時間と娘の幼稚園からの降園時間がバッチリ重なるため、父は午後休をとって妻を産婦人科まで送り届け、母は娘を自宅で受け入れる、という形を取る。折しも年度末、筆者は明日――出産当日を休むことが精一杯であった。
手術予定日はおおよそ半年前に決まり、一応の確定が2ヶ月ほど前であった。「一応」というのは、かつての妻のように当日緊急に帝王切開となった妊婦さんが優先されるからである。
あなたは、まあちょっとずれるかもしれないけど、この日に腹を切られます、と宣告されるのは果たしてどんな気分なのだろう。第一子で帝王切開だった妻は第二子においても帝王切開となるということは、主治医の先生に初期から言われてきた。自然分娩ができないわけでもないらしいが、妻自身が子の安全のために再びの帝王切開を希望した。
筆者としては正直、大変に助かった。予定日とはいえ、あくまで予定、その日に生まれるという保証はどこにもない。繁忙期に一応の部門の長である筆者が不意にいなくなる、というのは、典型的中小企業である当社としてはたとえ筆者のような人間であっても迷惑をかけることに違いない。もちろん、「子が生まれそうなので遅刻/早退します」に目くじらを立てるような同僚たちではないが、その日頃の頑張りを知っているがゆえに申し訳なさがある。第一子は緊急帝王切開であったものの土曜日生まれ、退院の日も祝日でその時点ですでに親孝行が完了していたな……。と今しみじみ思う。予定帝王切開は事前に手術日を決めるので、それに合わせて事前に休みを申請できる。もちろん、シナリオのない世の中、その前に諸般の事情で緊急手術のご家庭もあるが、我々の場合は妻と第二子の努力により無事手術予定日前日を迎えることができたのである。手術予定日を決める時に「この日と、この日どちらにしますか?」と聞かれ、そうか、予定帝王切開ということは、誕生日を事前に決めることができるということなのか……と不思議な気持ちがしたものだ。
第一子もそうであったが第二子も夜型で、特に第二子は妻のお腹を内側から噛むなどワイルドで妻の睡眠時間を削り続けていた。このため朝の妻は連日大変にグロッキーで、入院当日も筆者が出社する頃に寝室からようやっと出てこられた様子であった。少なくともこの辛さからは妻はまもなく解放されるのだなと思いながら、お互いにいってらっしゃいを交換した。午後、事前に準備していた入院用バッグを父が運び、妻がつつがなく入院ができたと本人より連絡があった。体調は決して良くはないが、そういった連絡ができる程度には安定もしていた。父に気を遣ったのか、愛用していた抱き枕(妊娠中はお腹が大きく重くなるので抱き枕を抱いて寝ると母子ともに良い)を家においてきてしまったという。これを好機として、筆者は退勤後一度家に寄って抱き枕を回収、入院先に届け、第一子の時そうであったように母子と父だけの時間をしばし持つことができた。妻はただただ明日が楽しみな様子で、かえって筆者が元気づけられて帰宅した。
誕生
当日。六時前に妻から連絡の通知で目を覚ます。休日だが、そのままいつものルーティンで洗濯物を片付け、食洗機を片付ける。娘の登園の準備……は今日はなし。帝王切開の予定時間は午前中であるが前述のように可変するものであり、一度産院に入れば出たり入ったりは難しいことを考えると娘の降園を迎えるのも難しい。また、妹の誕生に立ち会いたいかどうか本人に尋ねても「おめでと〜〜! する!!」とのことであったので、幼稚園は休ませたのだ。
今度は七時前に再び妻から連絡。帝王切開前の、おそらく最後の各種数値のモニターである。
07:06 急患が来たとの連絡。
07:35 昨夜からLDR (分娩室)に入っている妊婦さんの進み具合が芳しくないと連絡。
08:29 依然進みがよろしくなく、妻の帝王切開夕方に伸びる可能性を示唆される。
午前中の帝王切開というのは午前の外来が終わってから昼休みの間に行われる予定であった。今の進捗状況ではこの枠で、現在自然分娩で頑張っている妊婦さんが緊急帝王切開となる目算が高く、そうなると妻は午後外来の診療後になる、ということだ。
08:56 回診にて正式に外来終了後の夕方手術となる旨通達があったと連絡。妻は点滴を開始。仮眠。
09:30 娘と遊ぼうと考えるが雨のため、娘、母と車で20分ほどの地域の児童館へ。
10:00 児童館到着。
10:11 手術時間が17時か18時かなかなか決定しない中、お昼なら大丈夫か主治医から打診があったと連絡。
10:18 娘、平日開館直後の空いた児童館でおままごとをしつつ絵本を読むという幼児の夢のような時間を過ごす。
10:30 12時に親族が到着した場合、昼に手術ができると連絡。
10:48 ママと妹ちゃんにまだご飯を作りたいのに〜と粘る娘を説き伏せ、児童館を退出。
11:15 戦(イクサ)の到来を予感し、娘、母、筆者の弁当をスーパーにて調達。少し拗ねていた娘、いなり寿司を選び笑顔。
11:20 産院駐車場着。車内にて食事。
11:28 妻、泰然として生協の商品レビューを書く。
11:55 娘、母、筆者、腹ごしらえを終える。
12:07 産院入室。
12:15 諸書類の記入。妻と再会。全力笑顔で妻に抱きつく娘。
12:43 妻、LDRへ。我々は病室にて待機。
12:45 妻と別れた瞬間、ママが自分だけのままではなくなることを改めて悟り、メソメソし始める娘、母(彼女からしたら祖母)に抱きしめられながら、しとしとと泣く。
12:48 円座クッションが視力検査で使ったランドルト環に似ていることを発見し元気になる娘。
12:50 自然分娩妊婦さんが帝王切開を選択されたようだと妻より連絡(まだスマホが触れていた)
12:54 自然分娩妊婦さんの赤ちゃん、誕生
12:58 病室のベッドからママの匂いを感じた娘、布団に潜り込む。
13:03 娘、爆睡。筆者、娘の頬の光るものを拭う。
13:43 硬膜外麻酔。やるぞ! と連絡。
14:03 看護師さんよりLDRへ呼ばれる。妻の麻酔追加。
14:15 妻手術室へ、娘、母と手を振って送り出す。
14:28 手術開始
14:32 寝起きの娘、もう赤ちゃん出てくる? と緊張の面持ち。
14:35
ママ〜〜と声がした。
そんな馬鹿なと思われるかもしれない。
でも、確かに聞こえたのだ。そしてそれは、後から聞いたら妻もそうだったという。
それから、泣き声が聞こえた。
第一子よりも少し、甘えたげのような感じがした。
手術室のドアが開く。赤ちゃんの赤さに驚きながら、胎脂のべったりぶりに慄きながら、どこかでずっと不安だった気持ちが頬に流れるものとなって溶けていくのを感じた。
元気に生まれてきてくれて本当によかったと思った。この子と妻、どちらかを選択してくださいなんて場面が来なくてよかったと。事前の懸念そのまま、その顔を見てしまったら絶対にそんな決断は筆者は出来ない。これからもそんな機会は決して来ませんように。
第一子という、筆者と妻の良いところを引き継いでくれた最愛の娘。果たして第二子をちゃんと自分は愛せるだろうか。第一子と比べてしまわないか。そんな気持ちを悟られて第二子を悲しませてしまうことはないか。あるいは逆に、第一子への気持ちが疎かになってしまわないか。
全く杞憂だった。よくよく考えれば約四年前に、第一子が生まれたときに既に筆者は知っていたはずではないか。愛する人が増えた時、愛の総量は減るのではなく倍になるのだということを。
そうして、第二子は無事誕生したのだった。
涙を拭いながら、「しかし第一子の時の今後の流れを考えると今日役所に行って出生届を出すのは無理だな」と頭の何処かで冷静に考えている自分がおかしかった。しかしそういう余裕が今後活きることがあると信じたいものだ。
長い一日の終わり
麻酔から目覚めた妻はぴよログとみてねに第二子を追加した後、再び眠った。妻もまた、産後ハイなだけではない冷静さを身に着けていたことが頼もしかった。
とはいえ大変な大仕事をやり遂げた妻は麻酔を追加し、再び就寝。寝顔もどこか誇らしげだ。案の定、産院を出たのは午後六時近かった。(長女と母は午後三時頃に先に退出している)
いつの間にかたくさん溜まっていた親戚からのお祝いの連絡を一つずつ処理しながら、長女のときは真っ先に報告したTwitterへはツイートしなかった。特に深い意味はなかったのだが、しかしそれで改めて今の自分の中でのTwitterというものの位置を確認できたような気がする。
ではブログでは、と思ったが、筆者はブロクリ記事を積んでいる真っ最中でもあり、その義理を放り投げて記事を書くのもな……という気持ちがあった。また、長女のときは興奮状態であって誕生日まで特定できる形になってしまったが、次女の場合はそうしないというのもまた、一つの形としていいのではないか、という考えもあった。そういうことで今までもこれからも、インターネット上に次女の正確な誕生日は載せないでおこうと思う。
とはいえここまで報告に時間がかかってしまうとは思わず、そのあいだのあれやこれやは今やどこに出しても恥ずかしくないアラフォーとなった筆者には思い出すことが難しくもどかしい。今後は適宜我が家の記録も発信していきたいと思う。
こうして筆者はまたも自らはなにもせずだらだらと日々を漫然と送っている間に父親となった。この恩を返すには筆者の体は機械化する以外余地はないように思うが、ひとまずこの生身の体で粉骨砕身……すると家計に多大なる影響が出るので、捻挫も辞さない、位の気持ちで望んでいきたい。
さて激動の一日が後十五分で終わろうとする頃、再び妻からの通知があった。麻酔が切れたことによる泣き言だろうか……。
そう思いながらスマホを手に取ると、「もし長女が明日面会に来るなら、お家からどれでも好きな絵本を持っておいでと伝えてくれる? 読んであげたいから」というメッセージだった。
筆者はこの人には親として一生敵わないかもしれない、という心地よい敗北感を覚えながら、「了解!」のスタンプを押下した。