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ブロクリ2024参加作品を読む:24日目(モリオさん「オールタイムベスト<映画大好きポンポさん・感想>」)

余談

スペースに入り浸っていた頃、リスナーに見覚えのアイコンを見かけると、そのたび身が引き締まる思いがしたものだ。

もちろん、モリオさんのアイコンである。

既にご寄稿いただいたかずひろさん、虎賀れんとさん、ぞひ丸さんら平六トライスクワッドと同世代にして特撮・セルライクアニメの愛好家、暗黒の大陸踏破者、そして映画をこよなく愛するモリオさんの知見は広く深く、スピーカーとして参加されることはなくてもコメントによって補足や求めていたリアクション、応答を頂けることが多く、スペース外にありながらスペースをコントロールするシックスマンとしての安心感、それだけに気を遣った訂正をモリオさんにさせないよう、特に特撮周りのデータを参照するときは慎重になっていたものだ。

そんなモリオさんのクールなパッションがいかんなく発揮されるのは一人語りスペースで、事前に内容を予告しつつ、当日はさらにそれを掘り下げ、独自の視点で決して対象を貶めることなく、柔らかかつ理知的な語り口はまさに聴くブログ、娘を寝かしつけた後聴きながらコーヒーを淹れ、目を閉じる時間は非常に贅沢であった。

また、Twitter(自称X)においてもことあるごとにその感想を共有してくれ、視聴意欲が刺激される。

しかしそことトレードオフなのか、そのモリオさんの知性の集積地と言っていいブログは更新頻度は非常に上品であり、筆者をはじめとする全国一兆人のモリオさんのブログファンをやきもきさせていることは想像に難くない。Twitterのツイートごときではモリオさんの知見を格納するにはあまりにも小さいのだ。文字のカラーやフォントに至るまで神経の行き届いた記事が……読みたい!「モリオの定期的なブログ」に改題して欲しい……!

一方でモリオさんの姿勢の端々を見るにつけ、筆者はそこに「職人」を見る。自らが納得しないものは上梓しないという意地とプライドを。確かにモリオさんの記事を参照すれば、その辺のブログ記事の5倍くらいの滋養があり、その濃縮された栄養で暫く生きてはいけるのであるが……。

筆者はかつて仄めかされた「水星の魔女」「ククルスドアンの島」「閃光のハサウェイ」の記事をずっと待っているのである。「暗黒の大陸」は……大丈夫です、と言いたいところだけれど、あの作品でさえモリオさんは果たしてどう評するのだろう、と考えるとワクワクしてくるから不思議だ。

今のところ筆者の目下の願いは、「ジークアクス記事でめちゃくちゃにバズって世界にモリオさんの名を知らしめて欲しい」である。

本題

余談が、ながくなった。

ほんとマジで、無限に長くなるので、今回は「原稿用紙1枚分……400字まで」と自分を律して書くことにした。1,000字を超えてしまった。思えば算数は「く・も・わ」の頃につまずいたままだったのを思い出した。分数の計算って勝手にひっくり返してもいいものだったのだろうか? ちゃんと許可を得ていたのだろうか? 今もふとよぎる疑問である。

mori2-motoa.hatenablog.com

そんなことより、モリオさんの記事の感想である。先述したように職人気質が垣間見え、上梓された記事の確かさと引き換えに寡作というファン泣かせのモリオさんのブログ。もちろんファン諸賢であれば、以前もモリオさんが「映画大好きポンポさん」について記事を書かれていたのはご存じだろう。

スペースを愛し・スペースに愛された男(平六ラジオスクワッド好評配信中!)かずひろさんの年末のフェス、『今年イチオシの自ブログ記事をプレゼンするスペース in 2022』においてもその記事をひっさげて出演され、その記事の確からしさ、ポンポさん自体の良さを皆評価していたことは記憶に新しい。

しかし、2年間の間、モリオさんという獅子はひそかにその爪を、牙を研いでいた。そして今回、それが炸裂したのだ。

2023年、正月早々テレビ放送されることになったポンポさんを筆者は文字通りのお屠蘇気分で味わい、翌日痛い頭に思い出されるのは「不沈艦スタン・ハンセン」のみであった。そこから今回に至るまで、苦い記憶となり見直すことができていなかったのだ。

そのため、以前Webで一部拝読していた原作も含めて向き合うことにした。モリオさんは弊企画がきっかけになったと仰ってくださったが、筆者もまたこの機会を与えてくれた上に記事まで読ませてくださるモリオさんにあらためて感謝したい。

まず年末に原作の1~3を読み、年始に映画を観た。

鑑賞後、追加でもう一冊購入した。

ニャリウッド!2 NYALLYWOOD STUDIOS SERIES 映画大好きアランくん (MFC ジーンピクシブシリーズ)

 

ここから映画「映画大好きポンポさん」及び原作のネタバレがあります。

 

 

 

 

 

 

 

ポンポさんを観ったぞ~~~~~!

 

 

 

 

 

 

 

 

原作を始め読んだとき、引っ掛かりがぬぐえなかった。正直なところ、「これの映画が、本当にモリオさんのオールタイムベストなのか……?」という気持ちさえ鎌首をもたげてきた。

もちろん、話自体は面白かった。あっという間に読めたし、続編、続々編も読もうと思った。筆者としては2,3の方が圧倒的に好きである。

改めて、映画を観る。インターネットが到来していない叔母宅において、あらかじめスマホにプライムビデオ版をダウンロードしておいたのだ。少し過剰なくらいの「映画らしい」演出の数々。

ポンポさんがどこかで感じた「星」に引っ掛かりを探しているころ、やはり筆者も劇中に引っ掛かりを感じてしまう。

そして最初の編集作業。原作では文章メインだったものが、実際にこういう予告編なのだと見ることができる。これは凄い、と感じた。

文章では、「素晴らしい予告編だ…!」と言えば、それでいい。それは読者各々にとって、「素晴らしい予告編」となるからだ。

漫画であっても、何カットかを描写すれば説得力が出るだろう。

その中で映像で実際予告編をその製作過程も含め視聴者に見せる、というのは作り手もかなり自信がなければできないことだろう。実際、筆者はその出来栄えが素晴らしいと感じた。

それこそ編集で予告編の最後のところだけちょろっと映して、登場人物たちが褒める、という内容でもなんとかなったろうに真正面から挑んだ姿勢に既に「この制作陣…マジだぜ…」という気持ちになる。

(それだけにナタリーちゃんの〇の演技をしっかり見せて欲しかったなという気持ちはあるが……。これは「映画大好きポンポさん」のメインはだれかということをわからせるための「編集」なのだろう)

往年の俳優マーティン・ブラドッグのCVが大塚明夫さんだった時は自分の脳内を読み取られたかと思った。

撮影が始まっての雨の中の屋根修理のシーンやその後のポンポ組とジーン君のやり取りはライブ感あふれる創作風景で、基本的に1人で今のようにせこせこ打鍵しているだけの筆者は羨ましく感じることしきりであった。

そして「そこを目指して走ってきたシーンに辿り着く瞬間」……原作が基本モノクロのマンガであったからこそ起こせたマジックを果たしてどう映像化するのか、その期待を見事に裏切らずにやってみせてくれた。

撮影完了。ここから「映画『映画大好きポンポさん』」はその「本性」を見せ始める。オリジナルである原作ではこの後はジーン君がひとり、「楽しい楽しい編集の時間だ!」と悪ーい顔をして、場面転換、ニャカデミー賞授賞式へ移り、劇終となる。

だが、映画版は違う。ここからが本番なのだ。

先ほど、筆者は「みんなで創作ができるって羨ましいなあ」などと能天気に言っていたが、自分以外の誰かが頑張ったものを切り捨てていく選択をジーン君は迫られる。自分で文章を無料の空間に書いていくだけなら、「400字のつもりが1000字超えちゃった、うっかりうっかり」で済むが、他人の人生がかかっているのである。

序盤のわずかなシーンでも見ていて気疲れするような思考の数々。これが上映時間分……?と考えるだけで思わずめまいを覚えてしまう。

元々メタ的ないたずら心を冒頭から隠そうとしなかった本作品だが、ここからますますドライブしはじめる。

ジーン君が自分と撮影に向き合った結果訪れる試写会ぶっ飛ばし。
ポンポさんへの土下座。
ジーン君と好対照な存在・アラン君の登場。
踊り荒れるプレゼン。
これらは原作「映画大好きポンポさん」には存在せず、続編にその要素が感じられるエピソードたちだ。これらが巧みに「映画大好きポンポさん」の筋に「編集」され、「演出」され、織り込まれている見事さには唸った。
(一方でハリウッド映画で土下座するか?(ニャリウッドだからいいのか?)とか、この時点では異例の抜擢なのに試写会ぶっ飛ばし&追加撮影要求かよとか、コンプライアンスがさすがにガバガバ過ぎるとか、原作を読んだだけでは生まれない疑問点も生まれてしまったりしたのだが……映画版アラン君の先輩がカッコよすぎるのでまあいいか、という感じである。それはそれとして、「映画大好きポンポさん2」のジーン君の土下座しながらのセリフは筆者はシリーズで一番と言っていいくらい好きなので、未読の方はぜひ手に取ってほしい)

映画のアリア云々、ダルベールの家族については原作では全く存在しない。だがそこで語られる孤独さがジーン君に状況打開のヒントを与える。(原作では前述のように手をワキワキさせて編集をエンジョイしているのでジーン君は壁にぶつからないので登場の必要性がない)

筆者はバーチャルシンガーのかふさんをしばしば聴くので、不意にその声が聴けて嬉しかったりもした。

そして、劇終。あのコメントを確認した後思わずスクロールバーを確認し、にんまりとした。しかし、引っ掛かりは残ったままだった。

mori2-motoa.hatenablog.com

満を持して、モリオさんのブログを拝読した。

「学生時代に居場所を見出せず自分の頭の中の想像の世界に居場所を作っており目が死んでいる人(つまりジーン君)は、クリエイターとしての潜在能力が高い」といったポンポさんの持論は、「じゃあ、学生時代を謳歌した人には映画制作に関われないというのか」と作品を受け取られかねない危うさを感じるが、ジーン君とアランの存在がバランスをとっている。

 

ジーン君は「上映時間は長いほうが、たくさん楽しめる」と忌憚のない意見を言うし、アラン君はジーン君の目を「輝いてるよ」と評する。そうすることでポンポさんの評価を相対化しており、そうしたバランス感覚が、「上映時間が90分以上の作品は、現代の娯楽として優しくない」といったプロデューサーとして職務上築いた(気付いた)方法論の中から「90分以上の作品は長い」というポンポさん個人の経験・価値観・趣向を炙り出していく。

 

様々な作品をプロデュースし、作り手としてその過程を楽しむ一方で、観客として楽しめたことのないポンポさんに「大好きだぞ」言わせたのが、ジーン君が力点に置いたダルベールの物語であった。

 

作品または登場人物への自己投影や感情移入が、他者の自己投影と感情移入を引き起こす。この映画を介したコミュニケーションは、作り手・観客を問わない普遍性を感じさせるものであり、多くの人が関わる総合芸術と言える映画の懐の深さとそれ故の面白さを体現している。社会に居場所を見出せず、映画のために様々なものを切り捨てたジーン君が、映画を通じてコミュニケーションを果たす。感動的でした。

これなんだよ~~~~~!

筆者もトレンチコートマフィアに思わず同調してしまうような青春を送ってきた人間である。

open.spotify.com

美化されまくったヤンキー漫画じゃ描かれなかった「迷惑かけられる側」

でもポンポさんは「見下された陰キャが美女たちに囲まれてニャリウッドで天才監督生活~融資させてくれてと言ってももう遅い~」みたいな話ではない。

「学生時代の陰キャが成功して今くすぶっている陽キャにざまあする話」ではないのだ。

「お前の役割(ロール)を果たせ」と言ってくる物語だ。

陰か陽かクリエイターかそうでないかという単純な話ではない、総合芸術と呼ばれる映画が生まれ、そして届けられるまでに様々な役割で携わる人たちがどのようにそれを全うしてきたかを語る叙事詩なのだ。人間賛歌と言ってもいい。

だから、劇中の人々は誰もが正しいし間違っている。人間だもの。

筆者ははじめ、「映画大好きポンポさん」における「ポンポさん」は「ドラえもん」における「ドラえもん」だと思っていた。もちろんジーン君はのび太君である。

なので、彼女が劇中で述べる「幸福は創造の敵」という言葉がそのまま作品全体の真意を内包しているのかと思ってしまった。それが原作のときも、映画の時も引っかかってしまっていたのである。

しかしどちらかというと、「ゴジラ」における「ゴジラ」というところが近かった。もちろんジーン君は芹沢博士である。

自らの出生と境遇により多大なる力と引き換えに普通の喜びを感じることができなかった生き物が、ある種の救済を与えられるのだから。

medium.com

「幸福は創作の敵」ということについては、ずっと考えているしなんとかしようとしていることである。人生において、創作、邪魔すぎる。広いところではこの記事も創作活動である。仕事をして、妻子と過ごして、あっという間に就寝時間。1日そこを削れば調子を戻すために3日はかかることを身をもって知っている。娘の寝顔に幸せを感じながら、胸にチクリと刺さる「ああ、今日も創作が出来なかった」という気持ち。創作なんてことをはじめなければ、そんな気持ちになることはなかったのに……。だからと言ってこの幸福を手放すつもりなんて毛頭ないのはもちろんのことだ。自分には過分のものだと常日頃思っているとは言え。(今回企画に参加された方にも、本業・家庭のことをこなしながら素晴らしいブログを上梓されている方は沢山おられる)

ちょうど17年前(ギャー)の今頃、大学生協指定のPC……ではなく、無理を言って買ってもらったVAIOで大学の文芸サークル機関紙に初投稿するために六畳半の部屋、1人きり、友達もなく汗だくで打鍵していた。おれにはこれがあるから。これがあるから。それは確かにルサンチマンの発露でもあったかもしれないけれど、筆者なりの自己紹介であったし結果同好の士を得て「幸福」になった。それはまたもっと「創作」をして「幸福」になりたいという循環を生んだ。

書いていて気付いた。これは、クランクアップ後のジーン君と、最初の15秒予告編編集時のジーン君だ。

予告編撮影時のジーン君は目が死んでいて、失うものは何もなかった。だから言ってしまえば好き勝手にシーンを切り刻めた。他人の人生とか収益なんてどうでもよかった。しかし、撮影現場での一体感という「幸福」を得た後は、シーンを捨てることはそこで気づいた関係性も否定するように思えて怖気づいてしまったのではないか。(ジーンとシーンが入り乱れていて目が滑るね)

幸福はやはり創作の敵だったのか。そうではない。他人の人生の重さを自覚した結果、自分の人生を見つめ直して「芯」を見つけ、ジーン君は状況を打開する。ここにおいてジーン君は孤独ではなく孤高になったのだ、と思う。……周りを個性豊かな魅力的な女性陣が取り巻いているが……。

という、華々しいクリエイターサクセスストーリーの裏で頑張る銀行員アラン君。原作だと結構打算的なやつなんだけどそれもわかるんだよなあというキャラ造詣がいい。文系で優秀で要領が良くて銀行員になって3年目で辞めていく友人、めちゃくちゃいたなあ……。金融機関って大変なんだろうな、と戦慄したものだ。頑張り方自体は原作に輪をかけてエンタメ的というか、ここに引っかかる人も多い気はするんだけど、そのパッションにグッときてしまう。自分の役割を全うしようとあがく姿は美しい。

企画者として嬉しいのが、かつてモリオさんは「ポンポさん」の記事を公開・鑑賞から一年半の間その思いをたぎらせ続け、ついに公開されたその記事は公開からそれほど時間が経っているとは思えないほど情熱で煮えたぎりつつもいつも通りの的確な洞察――しかし撮影技術他テクニックの分析よりもその内容がいかに映画人必見かについて紙幅が割かれている――で筆者をはじめ多くの人に歓迎された。正直これ以上の記事を書くのは難しいのではないかと思っていた。

しかし、先ほどの引用部分は全く新たに今回生まれた部分で、これにより筆者は見事に引っ掛かりが解消され非常にすっきりした。さらに2年の時を経て、別の角度から物語を定義してくれるその手腕には敬服するばかりである。

こうなってくるとボジョレー・ヌーヴォーのように「今年のモリオさんのポンポさん感想」を毎年のように味わいたくなってくるから、自らの欲深さにうんざりしてしまうが、まずは他の下書き記事の昇華、あるいは新規記事を楽しみに待ちたい。

この記事を書くにあたって、再度家のテレビで「ポンポさん」を視聴した。娘が起きてきて、(プリキュアが始まる前の日曜の朝の時間だった)筆者の横にポンと腰かけた。ちょうど画面は、ペーターゼンさんとポンポさんが並んで映画を観ているシーンであった。

そのまま娘は最後まで視聴し、見終わった後、くるっと回って「ポンポさん!」と言ってポーズを決め、にこりと笑った。なんだか、泣きそうになった。

幸福が創作の敵ではないことを、筆者は今後の人生をかけて証明していく予定である。




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