猛暑に怯え物語の種に過剰に水をあげたりあるいは肥料を怠ったり日照りに晒しているうちに10月になり、今年も年の瀬が少しずつ足指に忍び寄りそうな様子を見せてきた。今期はいまだ何も公募に出せていない。
Twitterでも投稿したが、娘と連れ立って外出したとき、「風の匂いが気持ちがいいね!」と言われてはっとした。
その日は曇り空で風もあり、家から一歩踏み出した瞬間、明確な季節の変わり目を感じた。
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にも驚かれぬる」
という歌が残されているように風には音があり、また皮膚にあたることによって我々はその触感から季節の移り変わりを感じることだろう。
その日の筆者も耳と肌で秋の到来を感じていたはずだ。
ただ、風の匂いについてはすっかり意識することを忘れていた。風の匂い、味、木々の揺れ方で間接的に感じるすがた……そういったことは35年生きて効率化されていった筆者の感覚デバイスは拾おうとしなかった。そんなものがなくても秋風を感じることは出来るからである。
生まれて1,000日そこそこしか経っていない娘にとって、その日は風の匂いの気持ちよさを言葉にした初めての日だったかもしれない。そうした感性は筆者にはもう、ない。不器用ながら社会を生きていく中で、抱えられるものが少ないものだからそういったものはどんどん道すがら落としてしまっていた。
それを娘は拾い上げて、再び筆者に見せてくれた。惜しげもなくその感性を披露してくれる存在は、もともと乏しかった筆者が失った感性よりずっと得難いものだ。
どこかでも書いたが、もはや筆者は人生の主役ではなく、「娘ちゃんパパ」としての、娘の人生の脇役としての日々を少しずつ歩み始めている。しかし脇役の魅力的な物語が面白いように、自分の生き方をサボらないようにはしなくてはなるまい。
あの日の風の匂いを思い出す。鼻をくすぐる秋の香り、続けて押し寄せる運動会を控えた近所の学校のグラウンドからの土の匂い、目的地であるパン屋さんからやってくる焼き立てのパンのたまらない匂いを。
それはまとめて「幸せの匂い」として、娘の言葉と一緒に、今度は落とさないように筆者の胸の奥に保存されている。