藤野 保著「徳川幕閣・武功派と官僚派の抗争」吉川弘文館刊を読み終えた。
著者は徳川政権関連の著作が多い歴史研究者で2018年に死去されている。
周知のように徳川政権=江戸幕府は約260年間日本を強力に統治した。この本はその長期に渡った幕府権力の基礎はどのように確立されていったかを、政治史の観点から追跡し分析したものである。
著者はその骨格が初代将軍・家康、二代・秀忠、三代・家光、四代・家綱まででほぼ出来上がったと考えていて、その間の幕閣の多彩な行動、権力派閥抗争、更には実行された施策を分析することでその目的を達しようとしたものである。
ここで云う幕閣とは幕府を担った最高の為政者を云い幕府の閣僚に相当する。それは幕府の体制からみると徳川将軍の側近政治家群像に他ならない。
また徳川政権は豊臣政権を主に武力で引き継いだ政権であり家康、秀忠の時代は当然ながら武功で地位を築いた人々が政権の中枢を担うことになる。
然し平和の時代の到来が誰の目にも明らかになってくる生まれながらの将軍・家光や、その子・家綱の時代では、官僚と呼ばれる合戦を知らない人々が中枢に座るようになり、この事を表しているのが副題にある「武功派と官僚派の抗争」ということである。
以上が一般論であるが、この本の中で私自身の興味の対象になった具体的な数点を以下に挙げておくと、
・家康から始まる当時もっとも重要な分野である農政の方針は、 農民の生産物のうち、農民に必要な食糧や次の年に必要な種もみだけを残して、つまり再生産に必要な分量だけを残して、あとはことごとく年貢として取り上げるというもので、家康は代官たちが支配所に赴く際「郷村の百姓どもは死なぬように生きぬように」と語った。
・参勤交代の始まりは有力外様大名が競って人質を江戸に送り、機嫌伺いのため江戸へ上り下りするようになったこと、即ち諸大名の自発的意思によって行われたもので、制度化されたのは家光の時代の「武家諸法度」の改訂に依る。
・家光の時代に制定されたいわば平和時の軍役令である寛永・慶安軍役令では、1万石の大名の幕府に対し負担する軍役量は以下の通りで、家臣団の最小規模を示すものでもあった。
人数235人、馬上10騎、鉄砲20挺、弓10張、槍30本、旗3本。
・家綱の時代はそれまでの三代に比べ大名の改易(取り潰し)が緩められ、外様16家、徳川一門・譜代13家、計29家が改易された。家康時代41家、秀忠時代41家、家光時代49家である。
◉初期徳川政権四代で160の大名家が取り潰されたと云うことに正直云って驚いた。大量の浪人問題や社会不安が大きな課題となったことは容易に想像される。然しこの荒療治を乗り越えたことで徳川政権が260年続いたと云えなくもない。
◉今日の一句
朝霞出船入船宙(そら)をゆく
◉健康公園外周の椿





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「徳川幕閣・武功派と官僚派の抗争」
