以下の内容はhttps://kfujiiasa.hatenablog.com/entry/2026/03/20/064841より取得しました。


「武田三代/信虎・信玄・勝頼の史実に迫る」

平山 優著「武田三代/信虎・信玄・勝頼の史実に迫る」PHP新書 刊を読み終えた。

著者は日本中世史の専門家で、特に山梨県に関係が深く、その縁から甲斐国(かいのくに・山梨県)武田氏の研究には定評があり、私も過去同著者の「武田氏滅亡」などでお世話になっている。

武田信玄は多くの人に知られる戦国時代を代表する武将だが、この本は清和源氏の名門・甲斐武田氏の惣領として、隆盛から滅亡に至る歴史を体現した信玄の父親・信虎、信玄、信玄の息子・勝頼の3代を、最新の研究成果を元にその実像を解き明かそうとしたものである。

当然のことながら3代を3章に分けて叙述されていて、ここではそれぞれの章で一番心に留まった内容をピックアップし書き残しておきたい。

第1部 武田信虎(第15代・1494~1574)国内外の敵を排除し甲斐国統一を成した。その苛政を家臣や民に疎まれ信玄のクーデターで国外追放された。

・物価の様相を調べてみると、前後の時代と比較して信虎の時代は物価が高騰しがちで、甲斐の人々の暮らしは極めて苦しい時代だった。これは災害、疫病という天災に加えて甲斐国内の争乱が最も激しかった時期に当たる。

当時の社会では天災などの事態は国主が「天道」に適わぬ故と認識された。信虎は甲斐統一や戦国大名への脱皮、首都甲府建設という難事業を実現したにもかかわらず、それが民に更なる苦難を与え、結果的に自身が追放される流れを作った。

第2部 武田信玄(第16代・1521~1573)最強の戦国大名ともいわれ甲斐に加え、信濃、駿河、西上野、更に三河、遠江、美濃、飛騨各国の一部を領有した。

・信玄を称える逸話は数多いが一方負のイメージで語られるのは父・信虎追放と、嫡男・義信の廃嫡幽閉と死(自害と病死の二説あり)である。

義信は今川氏真の妹が正室で、武田家中の今川派中心人物で、当時信玄が織田信長と結ぼうとしていた同盟に反対し、クーデターを起こそうとしたところを信玄に察知された。著者は多くの家臣も処罰されたこの事件が武田氏滅亡の扉を開いたものと位置付けている。

第3部 武田勝頼(第17代・1546~1582)母は信濃の諏訪氏であり、当初諏訪勝頼と名乗っていたが、兄・義信の廃嫡に伴い信玄の跡を継いだ。滅亡時の当主で一般的な人物評価は低いが近年の研究では評価が分かれる。

・一般的に「長篠の戦い」の敗戦が武田氏滅亡に繋がったとされるが、決定的であったのは遠江国(とおとうみのくに)の要衝・高天神城(たかてんじんじょう)を巡る徳川方との攻防で、3年に渡る籠城を戦った人々を救援出来ず甲斐・信濃・西上野・駿河・遠江の武士多数を見捨てたことにある。

当時の人々は、勝頼が信長の武威を恐れ、武田領国の名だたる人々を救援することなく、無残な死に追いやったと認識した。勝頼の求心力と威信は完全に失墜し「天下の面目を失った」といわれるほどであり、武田氏にとってもはや取り返しのつかぬ事態となり、織田徳川の甲斐攻めに際し身内の叛乱も含め成すすべもなかった。

◉今日の一句

 

三椏(みつまた)の花知り初めし源氏寺

 

◉健康公園の「桃源郷」と名前の付いたエリアで花桃が咲き始めている。

「武田三代」

 

 

 




以上の内容はhttps://kfujiiasa.hatenablog.com/entry/2026/03/20/064841より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14