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『司馬遷と「史記」の成立』

大島利一著『司馬遷と「史記」の成立』清水書院刊を読み終えた。

同出版社の「新・人と歴史シリーズ」の一冊らしいが、この出版社名に記憶があり調べて見るとやはり私の学生時代もお世話になっていた社会科系の教科書や参考書の古くからの出版社であった。

著者は中国古代史の専門家で、この本は中国の歴史の父とも呼ばれる司馬遷(しばせん)の生涯と、彼が身命を賭して執筆し中国第一の歴史書とも云うべき「史記」の成立過程と、そこに込められた想いを追跡したものである。

余談ながら作家・司馬遼太郎(本名・福田定一)はペンネームを考えるに当たり、「司馬遷に遼(はるか)に及ばず」として司馬遼太郎としたと云われる。

司馬遷が生きたのは西暦紀元前2世紀で漢の武帝の時代、秦の始皇帝に始まる中央集権体制が完成に近付くと共に、経済や文化の発展も目覚ましく、対外的にも騎馬遊牧民族などを抑え、漢民族の帝国が四方に威をとどろかせた時代である。

司馬遷は王朝の祖先や天地を祀る神職の長である太史令という職にあったが、同じ太史令であった父の遺言に従い史記の執筆を始め、漢帝国の時代から前時代の、夏(か)・殷(いん)・周(しゅう)などに筆を広げ、更に周辺の民族、人物、文化などにも及び全130巻(12本紀・10表・8書・30世家・70列伝)全52万6千5百字と云われる歴史書を完成させた。

司馬遷史記を短い文章ではとても書ききれないが、ここでは個人的に外せないと思う2つの言葉とその内容を書いて置きたい。

李陵の禍(りりょうのか)

武帝の治世、漢は騎馬民族匈奴(きょうど)と西北で戦った。漢の将・李陵は帝に望み戦いに志願した。匈奴との戦いに善戦を繰り返すも多勢に無勢で遂に捕らわれる。

武帝は敗軍の李陵に死を望み、彼が敵に生きて捕らわれたことの是非を群臣に問うたが、群臣が武帝におもねり李陵の非をあげつらうなかで、ひとり司馬遷のみ李陵を庇い武帝の怒りを買う。

武帝司馬遷に死を命じるが、司馬遷には史記を完成させると云う大望があり、死の代わりとして世に恥ずべき宮刑(きゅうけい・男子の去勢)を受け、宦官(かんがん・去勢されて宮廷の奥に仕える)として生き遂に史記を完成させる。

天道、是か非か

司馬遷史記を書き上げるなかで、非道に倒れた高潔の士や正義の士を多く目の当たりにすることになる。自分が理不尽な宮刑を受けたことと併せ、天道は必ずしも信じるに足りないと疑うようになる。

その為司馬遷は歴史家として、高潔正義の人物の伝記をつくり、後世に伝えることこそが務めであると自覚し、リアリズムに徹した記述で史記に取り組むことになる。

◉今日の一句

 

「ばけばけ」を観ながら朝餉蜆汁

 

◉施設介護棟の庭、エリカ。エリカと云えば西田佐知子さんの「エリカの花散るとき」

♪︎♪︎青い海を見つめて 伊豆の山かげに エリカの花は 咲くという♪︎♪︎




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