1月30日のこのブログに「大谷吉継」の本を読んだことを書いた。その中に、豊臣政権下で重きを成した大谷吉継の人となりを語る史料として、私が追跡する厚狭毛利家文書が使われており、折角の機会なので紹介し記録しておきたい。
歴史好きにとってこのような予期せぬ出逢いは何より嬉しいことである。
紹介されているのは、秀吉の朝鮮侵攻の際、吉継が石田三成、増田長盛等と共に奉行として現地に渡海した折、厚狭毛利家の家祖・毛利元康宛に発出した2通の書状である。
元康は毛利元就の八男、このブログでは2021年1月31日厚狭毛利家⑱初代元康の足跡①、2月5日厚狭毛利家⑲初代元康の足跡②、4月30日厚狭毛利家⑳初代元康の足跡③などを含め折に触れて書いてきた。
文禄元年(1592)秀吉の朝鮮侵攻に伴い毛利勢は3万人の軍勢で釜山に上陸、元康は一手の将としてこの中にあった。その後、都である漢城(ソウル)の北方、開城まで進出した。
この時朝鮮を支援すべく明(みん・中国)将・李如松(りじょしょう)が率いる大軍が南下しつつあり、日本軍奉行は全軍を漢城に集結しこれを迎え撃つことを計画、開城近くに在陣中の諸将に説得をかけ、小早川隆景を始め説得を受け入れて軍議を行い、都の近郊・碧蹄館(へきていかん)で明軍を撃ち破り明軍は平壌に撤退した。。
この時吉継が元康宛に漢城への撤退を促すべく出した書状(厚狭毛利家文書)、著者が書かれた現代語訳をそのまま使わせて貰う。
使者を遣わし書状をお届けします。昨日はお心遣いをいただきありがとうございました。さて黒田長政は坡州(ぱじゅ)に籠城していますが、状況が変わったため、長政は都(漢城)に転進することになりました。そこで、あなたがおられる城も早々に破壊し(小早川)隆景と同様に都へ(軍を)引き上げて下さい。詳細は奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)連判状で隆景には申し伝えてあります。よろしくご理解ください。なお、使者に伝言をもたせてありますので、書状では省きます。(追伸)あなたの(城を維持したいという)お気持ちは奉行衆にも伝えてあります。懸命のご覚悟と(奉行衆も)感じ入っております。
その後日本軍は漢城の北に朝鮮軍が籠る幸州山城を攻撃したが城を落とすことが出来ず、日本軍は全面撤退したが、この際奉行衆の指示のもと、しんがり(撤退の最後尾)を務めたのが毛利元康であった。撤退の翌日吉継は元康を慰労し部下の安否を問う書状を出している。
一筆差し上げます。さて昨日の(幸州山城合戦)ご苦労、いつものことではあります(が、お慰めいたします)ことにわれらの指示で「後殿(しんがり)」をお引き受けいただき、比類なきお手柄をあげられたこと申し上げるまでもありません。その折(吉継の陣に)お出でいただいたとのこと(しかし吉継は)あまりに疲れてしまい、黒田長政の陣営に合流しておりましたので、お会いできませんでした。申し訳ありません。いろいろお話ししたいことはありますが、直接お会いして申し上げようと思います。
(追伸)なお、昨日前後のご様子については、閑斎(吉継家臣)方へ届けられた書状で了解しております。皆で相談して(城攻めを)実行したことであなた(吉継)の不手際はないとのご趣旨、ご配慮感謝いたします。昨日拙者(吉継)がお伺いしてお話しした件も即座にご了解いただきました。一生忘れることのないことで感謝の言葉もありません。(小早川)秀包ヘもよろしくお伝えください。またご家来のうち、どなたが負傷されたのでしょうか。心配です。吉見殿、三吉殿、天野殿、佐波殿、皆様お怪我はなかったでしょうか。お手数ですがお知らせいただきたく思います。
しんがりとは撤退する軍の最後尾のこと。
◉この2つの書状からは、大谷吉継の指導力と気配りに優れた人物像と併せ、毛利元康の優れた軍事能力と協調性が浮かび上がる。
書状から、当時毛利家に従っていた中国地方の有力国人領主・吉見、三吉、天野、佐波、各氏が元康の指揮下にあったことがわかり、元康が毛利家のなかで極めて枢要な地位を占めていたことがうかがえる。
元康はこの文禄の役の和議成立後帰国するが、秀吉からその功によって豊臣姓を下賜され、従五位下大藏大輔(じゅごいげおおくらたいふ)に叙任された。中堅大名並みの官位であるが、これは奉行衆から秀吉へ書状にみられるようなことの上申があった結果と推察される。
◉尚「厚狭毛利家文書」はこれまでこのブログ2023年12月15日「厚狭毛利家文書の地元移管」などで書いて来たように、山陽小野田市立厚狭図書館に保管されている。
◉今日の一句
悪相で雀脅すや河原鶸(かわらひわ)



