大石泰史(おおいしやすし)著「城の政治戦略」角川選書刊 を読み終えた。
現在歴史好きの間では全国各地の城や城跡を巡るのがブームのひとつとなっているらしいが、通常「城」を相手にした場合、城郭考古学のようなその城の縄張りや構造を解き明かして行くものや、その城が遭遇した出来事、中でも合戦の内容を解き明かして行くことが今までの歴史学の主流であり、一般の興味もそこにあったような気がする。
著者は戦国大名となった駿河国(するがのくに・静岡県)今川氏とその家臣を文書や古記録などの文献を中心に検討する研究者で城郭研究に携わったことはないとのことである。
この本は著者が「はじめに」で書かれているように、今川氏の城に関する文書などを解析し、大名が城を軍事的・政治的・経済的な中心地すなわち戦略拠点として活用し、どのような戦略志向を持っていたかなどの解明を目的としている。
したがって城の読み物として必ず附随している攻城戦、籠城戦などは全く出て来ず個人的には少し残念。
今回研究対象としている代表的な城は今川氏が版図とした駿河国・遠江国(とおとうみのくに・静岡県)・三河国(みかわのくに・愛知県)以下の4城館である。
・経済的拠点・宗教的拠点から始まった「場」に寄り添って建立され今川氏によってその後政治・社会・文化の中心へと昇華していった。
・通常大名が「館」に居住する場合「詰めの城」と呼ばれる防御の城を後背地に置くが、今までそれは賤機山(しずはたやま)城と考えられてきたが、著者は「館」から4.5kmの距離にある建穂寺(たきようじ)を挙げている。
・もともとこの地は小田原北条氏が押さえていたがその後今川氏の支配下に置かれた。
戦国時代有名な駿河・今川氏、甲斐(かい・やまなしけん)・武田氏、相模(さがみ・神奈川県)・北条氏の駿甲相三国同盟があり、それをアピールする場としてこの城が選ばれ三大名の承認の下で今川氏が大改築した。
城は三大名会見の場として機能しハレの場を提供、外交戦略をアピールした。
・武田氏と徳川氏との攻防が有名な城で、高天神を制するものが遠江を制すると云われた。
・東海道の掛川と遠州灘の湊を結ぶ中継拠点・要衝にあり海運水運を視野に入れた城である。
・今川氏が駿河・遠江を完全に押さえその後領域を拡大していく先の三河・尾張(おわり・愛知県)両国に於いて拠点を設定していきその拠城に遠江の有力領主層を「城代」として入れ彼らを在地に根付かせないようにした。
・そのような侵攻地支配で重要拠点になったのが吉田城で三河国内の各城を見渡す"センター"機能を担った。
◉戦国時代の城となれば合戦譚が付き物だが、そこから離れ、政治戦略の上から城を見るという今までにない切り口であり新しい知見が得られた気がしている。
◉今川氏と云えば桶狭間で信長に討ち取られた義元、その子で今川氏滅亡の当事者・氏真が頭に浮かび負の印象が強いが、この本から、実際は駿遠三の3か国を抑えた強力な戦国大名であったことが今更ながらよくわかる。
◉今日の一句
読初や子(し)曰(のたま)はくと声を上げ
◉施設の庭、寒さのなかのガザニア


◉先日行った「なぎさの池」の写真を通路に掲示させて貰った。

「城の政治戦略」
