10月12日及び11月21日のこのブログに歴史学者・磯田道史氏が月刊誌・文藝春秋に来年の大河ドラマに関連して「秀吉と秀長」という読み物を短期集中連載と銘打って書かれていることを紹介した。
2回書いたので終りにしようと思っていたが、12月号は「ポスト信長は土木・情報・スピードが決めた」と題して播磨国三木合戦が秀吉・秀長兄弟に「進化」をもたらしこれが後の天下取りに繋がったとの論旨であり、三木合戦と聞いては3回目を書かざるを得ないなと思い返した。
今までもこのブログで触れて来たように、三木合戦は天正6年(1578)~天正8年にかけて播磨国(はりまのくに・兵庫県)の有力豪族・別所氏が、三木城(兵庫県三木市)に籠城し信長・秀吉軍と戦ったもので、元々は信長の指示を受けた秀吉の毛利攻めに協力していた別所氏が途中反旗を翻し、これに播磨の国人多数が味方して長期戦になった。
天正8年1月秀吉軍の包囲兵糧攻めに力尽きた三木城は別所一族の切腹で開城、籠城していた人々は播磨国内に散りこの苦しい戦いは播磨の伝説になった。
余談ながら現在住んでいる神戸市垂水区の地域資料を読むと、この一帯は当時別所氏の支城やゆかりの寺院(転法輪寺、多聞寺等)があり、秀吉軍による三木城を裸にするための焼き討ちで焦土と化したようである。
磯田氏はこの戦いがもたらした秀吉・秀長軍の進化を以下の3点挙げて説明している。
①軍事土木技術の飛躍的向上と戦場への応用
三木城を封鎖するため延々と行った、付け城、濠、堤、防御柵、などの土木技術が築城や備中高松城の水攻めなどに生きた。
②畿内~中国地方を結ぶ情報ハイウェイの確立
上方から常に情報が入って来るような人や拠点の配置が出来ており本能寺の変などで機能した。(毛利方が本能寺の変を知ったのは秀吉の1日以上後)
③高速の移動能力の向上
②の情報拠点は乗り換え馬なども用意され移動拠点としても活用された。また秀吉は信長の西国出陣に備え小さな城くらいの規模で設備を持つ宿泊拠点を次々に建設していて、これらが光秀との決戦に向かういわゆる「中国大返し」を可能にした。
これらのノウハウが天下取りへの道をひた走る秀吉・秀長兄弟を飛躍させたと説いている。
◉実質2年に及ぶ三木合戦は敗者の側には「郷土への誇りや伝説」を勝者の側には「天下取り」をもたらしたと云えるかも知れない。
◉今日の一句
初霜や物影の形(なり)そのままに
◉施設の庭、ビワ(枇杷)の花




