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「リーダーたちの日清戦争」

佐々木雄一著「リーダーたちの日清戦争吉川弘文館・歴史文化ライブラリー刊 を読み終えた。

まだ年末まであと1ヶ月と少しを残しているが、多分私にとって今年読んだ本の中で10指に入る有益なものとなった書籍である。

プロフィールを読むと著者は歴史の専門家ではなく、法学政治学の専門家のようで、それが題名の「リーダーたちの」という名に表されていて、実際の戦闘や戦争の経過は要所で簡潔に触れられているだけで、徹頭徹尾政治や外交の追跡に他ならない。

云うまでもなく日清戦争とは明治27年(1894)7月から明治28年(1895)4月にかけて行われた日本と中国を統治していた「清(しん)」国との間に行われた主として朝鮮半島をめぐる軋轢から生じた戦争で、近代化に先んじた日本の勝利で終わった。

その結果日本は台湾及び澎湖(ほうこ)諸島と莫大な賠償金を得、朝鮮半島から清の影響力排除に成功した。日清講和の段階ではこの他に日本は遼東半島を得ることになっていたが三国(ロシア・フランス・ドイツ)干渉により返還せざるを得なかった。

この戦争を日本側で指導したのは首相・伊藤博文、外相・陸奥宗光明治天皇、をはじめとする明治維新をくぐり抜け成し遂げた人々で、著者が「リーダーたちの」という題に込めたものがこの辺りもあるような気がする。

ここでは日清戦争の経過にはあまり触れず、私がこの本で得られ理解した知見のなかから幾つかを抜粋して残しておきたい。

日清戦争は根本的には日本と清の世界観が相容れなかったために起こった戦争で、清は朝鮮は属国と位置付け、日本は独立国として清の影響力を排除しようとした。当時の大国・清に対し1880年代後半から1890年代にかけていざとなれば戦争を遂行出来るような軍備が日本に成立した。その背景のもとで1894年朝鮮で大規模な民衆反乱・東学党の乱が発生、鎮圧のため両国の派兵と駐留を経て開戦に至る。

・日清開戦から戦争中において日本の指導体制の中心は首相・伊藤博文であり、昭和時代と違い政軍の関係は協調的で軍は内閣の統制を受けていた。

・この間外交を終始指導したのは外相・陸奥宗光である。

・清側には膨大な兵力と巨大な軍艦があった。その中で終始日本側が優勢であったのは、清軍が十分に訓練され的確に統率された近代的な軍隊ではなかったことによる。

・日清講和はアメリカの仲介で清全権・李鴻章、日本全権・伊藤、陸奥で下関で始まったが、会談場所からの帰途、日本人による李鴻章狙撃事件が発生、当初日本は清に軍事的圧迫を加えながら有利な講和へ繋ぐもくろみだったが、この事件を機に列強の干渉が始まることを恐れた日本は、清が望む先行して無条件休戦に合意する。

・講和締結後三国干渉が起こったが、日本政府はこの事を警戒していたものの事前に動向を探知出来ず未然防止出来なかった。ロシアが日本の遼東半島領有に不満を持ち何らかの対応に出ることは日本政府は良く分かっていた。

・三国連合干渉に至った大きな原因はドイツにあり、ドイツ世論は親日的でありながら、政治上の打算に基づき行動し、当時のドイツ公使・青木周蔵は肝腎な情報をつかめていなかった。

日清戦争における日本の目的は「最大限の利益」を得ることにあり、その条件は清が合意履行できることと列強が受け入れることであった。列強の干渉が起きてしまった以上それを清の対応に反映させず、朝鮮独立、巨額の賠償金、台湾割譲といった日本の戦勝を反映した講和条約を確実に成立させることを目指し実行された。

日清戦争、三国干渉の当時駐ドイツ公使は青木周蔵であった。青木はドイツ留学が長く日本の不平等条約改正に尽力、各国大公使を歴任し山縣内閣、松方内閣などの外務大臣に就任した。

青木周蔵はわたしの郷里、山口県厚狭郡山陽町(現山陽小野田市)が生んだ唯一の大臣で、平凡社東洋文庫#168に収載されている「青木周蔵自伝」を遺し、このブログでも2019年5月1日「青木周蔵を知っていますか」を始め何度か取りあげたことがある。

◉今日の一句

 

来し方に別の生き方想う冬

 

◉介護棟屋上のなでしこ(撫子)

「リーダーたちの日清戦争




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