10月12日のこのブログに歴史学者・磯田道史(いそだみちふみ)氏が月刊誌・文藝春秋の10月号から来年の大河ドラマに関連して「秀吉と秀長」という読み物を短期集中連載されていることを書いた。
11月号は連載の2回目だが、引っ越し後現在住んでいる播磨国(はりまのくに・兵庫県)の戦国時代を象徴する事件「別所氏の三木城籠城」の原因について近年の研究に基づく新しい説を紹介されている。
三木城の籠城戦については2023年2月10日、『「別所一族の興亡」・播州三木城の戦い』、2024年2月16日「三木城址へ行ってきた」などこのブログで何度か触れて来たが、播磨地域の歴史に大きく刻まれる出来事のひとつである。
別所長治を当主とする一族が、信長、秀吉の強大な軍事圧力に反旗を翻した原因を今までの説では、秀吉の出自や風采を前にして別所氏の名門意識がその下風に立つことが我慢ならなかった、別所氏内部の対立が方針転換につながった等が挙げられ、作家・司馬遼太郎さんが戦国武将・黒田官兵衛を描いた長編「播磨灘物語」もほぼこの説に沿ったストーリーとなっていた。
近年の研究では、反旗を翻し籠城に及んだ原因のひとつは「破城(はじょう)」にあるとされる。
戦国の世、複雑な地形を持つ地方では豪族達が割拠して砦を築いている。秀吉のように外から来て一帯を支配しようとするとこうした砦を壊した方が後の統治がしやすくなる、これが破城であり、城割(しろわり)とも云う。
播磨の土豪、国人達にとって屈辱的であったのは自分達の砦や山城が壊されることに加え、彼らに手伝いさせて秀吉側の城を作ったことが決定的になり、天正6年(1578)3月、別所氏が三木城に籠城し、播磨の豪族達が別所氏のもとに終結し約2年に及ぶ籠城戦を戦うことになる。
先に11月9日のこのブログで紹介した「播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史」では別所長治が信長、秀吉から離反して毛利氏に与した要因を、以下に挙げて別所氏は毛利方が有利であると判断意思決定したと書かれている。
・別所氏が当時の情勢を冷静に判断した結果、
・長治が秀吉に対し何らかの不信感を抱いた、
・足利義昭による熱心な工作があった、
以前のブログにも書いたが、この戦いは秀吉軍が城を兵糧攻めしたことで城内は極端な飢餓に苦しみ、天正8年(1580)1月、城主・別所長治と一族の切腹で開城、過酷な状況に耐え城内にいた人々は、秀吉の計らいで助命され播磨一帯に散ることと別所長治の潔さとが相俟ってこの戦いが播磨の伝説となった。
◉今日の一句
老い飾る荷物振り捨て冬構
◉住んでる施設の介護棟の庭、シクラメン



