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九州船旅④宮崎

このブログ11月1日の続き、

この船旅の最後の寄港地は宮崎県日向市にある細島港で、国際工業港として国の重点港湾に指定されていて、港の雰囲気は他の2港と異なり工業地帯の港そのものである。

にっぽん丸には図書室や喫茶室などもあることから、最終日の宮崎では上陸せず船内でゆっくりしようと予定していたが、日向市内へのシャトルバスがあり予約なしでも乗れ、市内には歴史のある美々津(みみつ)という地域があると教えて貰い、つい半日ばかり出掛けることに変更してしまった。

以下は今まで名前も知らなかった主に日向市美々津地域のあれこれである。

日本海軍発祥の地

先ずびっくりしたのは、美々津の町歩き案内パンフレットに「日本海軍発祥之地」という表現があり、実際にその立派な碑が立っていること。またその碑文を書いたのは戦前に海軍大臣、総理大臣を歴任した海軍大将・米内光政(よないみつまさ)であることがわかった。

なぜここが海軍発祥なのか?疑問に思い調べてみると「古事記」「日本書紀」に記された「神武天皇東征神話」に由来するらしく、ここ美々津から船出し各地を従えながら東へ向かい、ついに大和に入り初代天皇に即位するストーリーで、この船出を海軍発祥と結びつけている。

米内光政は盛岡出身で海軍内では開明的な人物として知られ、日・独・伊三国同盟や対英米戦争には反対の立場であり、このような人物でさえ神話をもとにした碑文を書いている事実に、戦前の日本の雰囲気を感じざるを得ない気がする。

・渡し場跡

美々津は耳川(みみかわ・熊本県境に源を発し日向灘に注ぐ)河口に開けた港街で昭和になるまで耳川を渡る交通手段は高瀬舟による渡しだけであったらしい。写真の背後に見えるのが耳川である。

耳川を始めて目にし思い浮かんだのが、戦国時代の九州の行方を左右した天正6年(1578)の「耳川合戦」である。当時九州に君臨していた豊後国(ぶんごのくに・大分県)が地盤の大友氏と薩摩国(さつまのくに・鹿児島県)が地盤の島津氏が日向国(ひゅうがのくに・宮崎県)を巡って衝突、大友軍は大敗し以後衰退に向かう。一方島津氏は秀吉の九州出馬まで、一時九州全域に勢力を拡げることになる。

・日向市歴史民俗資料館

美々津が港町として成立するのは江戸時代からで、当時の廻船問屋の建物が市の歴史民俗資料館となっている。

千石船を所有する廻船業者達は耳川上流の材木を始めとする産品を上方へ送り、上方の特産品を持ち帰って美々津千軒と云われる繁栄をもたらした。

これも現地で知ったのだが江戸時代この地は高鍋藩・秋月家の領地の一部で参勤交代の乗降地としても重要視された。

この廻船問屋が所有していた千石船

帳場

内庭

耳川は西南の役でも戦いの舞台となった。当時の薩摩軍の火縄銃の展示、これが全てではないと思うが、これでは官軍の元込めライフル銃には敵わない。

月氏平安時代から続く九州筑前国(ちくぜんのくに・福岡県)に勢力を張った名族で、戦国時代は毛利氏とも友好的な縁があり、最盛期には戦国大名として勢力を拡げた。

秀吉の九州平定により日向国高鍋に移封され、江戸時代も日向高鍋藩3万石として続き明治を迎えたが教育藩として知られた。

名門上杉家米沢藩の改革を進めて有名な上杉鷹山(うえすぎようざん)は高鍋藩6代種美の次男で養子に入った治憲(はるのり)である。

・美々津の街並み、全国に129ある「伝統的建造物群保存地区」のひとつらしい。

石畳を復元した箇所

共同井戸

正覚寺

高札場を復元したもの

抹茶と団子セットをいただいた元商家の内庭

ピンクの壁は紅殻を色合わせしたものとのこと

立磐(たていわ)神社、神武東征の折航海安全を祈った海神が祀られている

◉宮崎・細島港に繋留中のにっぽん丸

出港時和太鼓演奏で見送り

◉今日の二句

 

現世(うつしよ)と神話の在りて秋日向

 

冬浅し神話道連れ日向旅

 

◉住んでいる施設の介護棟の庭、シュウメイギク秋明菊

 

 

 

 




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