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九州船旅③鹿児島

10月30日のこのブログの続き

10月26日のブログに書いたように、急きょ屋久島の代わりに鹿児島に寄港することになった。

長州人として個人的に鹿児島と云えば、幕末の敵対関係から大きく転換し、薩長連合から維新~明治の薩長藩閥へとつながる歴史が思い浮かぶのだが、一般的にはバスガイドの方がいみじくも云っていたように、桜島、鹿児島弁、薩摩芋(焼酎)薩摩藩島津家72万9千石、更に西郷隆盛と来るのだろう。

これらにも関連する以下に鹿児島で撮った写真を載せる。

・マリンポートかごしまへ着岸接近中の船から見る桜島鹿児島市街、

・市内仙巌園(せんがんえん)、桜島を借景にした島津家の別邸、万治元年(1658)島津氏19代光久が築いた。

正門、丸に十字の紋が正面と屋根瓦にある。

島津氏28代(薩摩藩11代)幕末の名君・島津斉彬(しまづなりあきら)が作った反射炉(鉄などを溶かし大砲を鋳造する)跡、

幕末の四賢侯(しけんこう)のひとり斉彬はこの場所に「集成館(しゅうせいかん)事業」と呼ばれる洋式工場群を作り富国強兵と産業育成を目指した。斉彬は、13代将軍・徳川家定に嫁いだ天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)の養父に当たる。

菊まつりの飾り付け準備中

千尋巌(せんじんがん・大変大きな岩の意)島津氏27代斉興(なりおき)が彫らせたもの。白色は貝殻を砕いた粉で塗り固めたもの、尋(ひろ)とは両腕を拡げた幅を云う長さの単位、1尋=約1.8m。

御殿

薩摩焼

女性用籠

書院

中庭

襖絵

寝間

桜島を借景にした庭

西南の役の終焉、西郷隆盛最期の地・城山

この明治10年(1877)西南の役(せいなんのえき)で武士の世に区切りがついて、実質的な意味での明治時代が始まる。

城山は鹿児島城を背後から守る「詰め城」の役目を持っていた。

西郷隆盛を彷彿させる楠の巨木

城山から見る鹿児島市街と桜島

西郷隆盛が死の前まで居たとされる洞窟(バスの窓から)

・鹿児島・鶴丸城趾(バスの窓から)

鶴丸城御楼門(バスの窓から)

西郷隆盛像(バスの窓から)

鹿児島市内の繁華街、天文館通・路面電車(バスの窓から)

◉今日の二句

 

城山に楠(くす)の巨木や南洲忌

 

薩南に楠の実熟るる戦の地

 

仙巌園の柿

 

 




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