私の郷里・山口県厚狭(山陽小野田市)には西方に山野井(やまのい)という地域があり、明治22年(1889)市町村制が施行されるまで江戸時代~明治にかけて山井村、山野井村であった。
江戸時代、厚狭一円の大部分は毛利一門の厚狭毛利家と萩藩寄組(よりくみ・上士)の熊谷氏の給領地であったが、山野井村と周辺地域のみ萩藩の支藩・長府藩の飛び地領であり、この経緯などは2023年7月7日のこのブログ「戦国武将三澤氏物語①」などで触れたことがある。
山野井には八幡宮があることは知っていたが、先日たまたまこの社家が中学校の同級生であることを同じ同級生から教えて貰い、この際と思い手持ちの資料などをひもといてみたところ、山野井の地名の由来に関する記述に出会ってしまった。
<社寺由来>江戸時代の1700年代に防長二州の全社寺堂庵の由来を上申させた現存最古の記録。
享保13年(1728)山野井八幡宮の当時の祠官・渡邊織部が上申したものの内の一部を現代文にしてみる。
豊前国(ぶぜんのくに・大分県)宇佐八幡宮を勧請して社例を伝え卯の祭を勤めて来ましたが、その折の縁起は紛失しました。建武年中(1334~36)に再建した棟札(むねふだ)があります。
昔、城福寺という寺跡が社のそばにあり、薬師仏、十二神座像共に現在ここにあります。当所を山野井と申すのは、当社の神供井戸がその旧地寺前にあったことによります。かんばつで実りの悪いときには地下人(じげにん・百姓)が集いこの場所で雨乞いの勤めを致します。そのほか近在に末社が五社あります。尚、神職は代々役の裁許状を申請し、祭礼等を怠らず勤めています。
*八幡宮は途中街道沿いの現在地に移ったとの別の記録もあり、この井戸は旧地に有ったものとの解釈も出来るが、同級生に確認して貰ったところ、現在地にも境内には井戸があり階段下には泉があるとのことであった。
◉幕末萩藩(長州藩)が藩政改革に関連して天保12年(1841)各地方(宰判・さいばん)ごとに民情を注進させた「風土注進案」によると、山野井の名の由来についてはこの井戸説の他に以下の2種類が書かれてあるが一番真実に近そうなのはやはり井戸説のような気がする。
・松嶽山(まつたけさん)に関わる神功皇后伝説の中で「山の手が山ノ井に変わった」
・昔、老翁がこの地を訪ね来て池辺に立ち寄り「流れ行その水上をたつね来て心をすます山のいの月」と歌を読まれ、これより村の名になった。(老翁の話しは風土注進案原文でなく付箋に書かれ原文に付されている)
◉今日の一句
軽トラで神輿が巡る村祭
◉鹿児島港ターミナルのゴクラクチョウカ(極楽鳥花)



