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「秀吉襲来」

お世話になっている垂水図書館が駅前に新築されることはこのブログにも書いたが、移行期間の約1ヶ月の休館を経てようやくオープンした。

垂水駅前の新しい図書館

本体を支える太柱の免震構造

混雑回避で少し時間を置き新しい2冊の本を借り出したがその内の1冊がこの渡邉大門(わたなべだいもん)編「秀吉襲来」東京堂出版 刊である。

題名からすると如何にも小説風だがそうではなく、本能寺の変織田信長が横死した天正10年(1582)から小田原北条氏を滅亡させた天正18年の間、秀吉が如何にして台頭し、諸大名を屈服、滅亡に追い込んだかを史料に基づき検証したものである。

内容は10章に分かれ以下の大名と統括する地域を10人の歴史家が分担執筆したものを編者が編集したものである。

10章は各々柴田勝家織田信雄・信孝、長宗我部元親真田昌幸上杉景勝徳川家康島津義久・義弘、毛利輝元伊達政宗北条氏政・氏直を対象にしており、時系列に沿って天下統一過程が記述されると共に、10人の人物地域が複合的に関係している様が浮かびあがる。

ここでは私が日頃からテーマにしている毛利氏についての第八章「毛利輝元羽柴秀吉―中国国分の様相をめぐって」に少し触れておきたい。

周知のように秀吉は織田信長の指示のもと中国地方の雄・毛利輝元を屈服させるべく、播磨(はりま・兵庫県)、因幡(いなば・鳥取県)を攻略し備中高松城を囲んでいた折り本能寺の変報を受け、毛利方と和を結び上方へ返り明智光秀を山崎で打ち破り天下への道を歩み始める。

秀吉は柴田勝家を賤ヶ岳で破り信長亡き後の織田家主導権を握った後、天正11年(1583)毛利方との和平確定交渉を開始する。それは互いの領土確定に他ならず、有利な秀吉側に毛利がどれだけの領土を割譲するかであった。

領土を渡す側の毛利は流石に意見が容易にまとまらず、秀吉の怒りと恫喝(どうかつ)を再三受けることになるが、事態を動かしたのは毛利方の交渉窓口であった使僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の冷静な現状分析と、怒りを交えた毛利家上層部(吉川元春小早川隆景を含む)への説得であった。

恵瓊は毛利家の首脳が領土の保全にこだわるあまり、毛利家そのものが滅亡するのではないかと強く思っていたことが裏付けられている。

結局毛利方は備前国(びぜんのくに・岡山県)、美作国(みまさかのくに・岡山県)、伯耆国(ほうきのくに・鳥取県)三郡、備中国(びっちゅうのくに・岡山県)の高梁川(たかはしがわ)以東を割譲することで和睦し、秀吉は毛利家に中国方面の差配を任す朱印状を発給する。

最も問題になったのは割譲した地域で、長年毛利方に与して戦った国人領主の存在であり、各々の城や領地を明け渡すように説得する他なく、美作、備前の例をみると退去後小早川隆景の家臣となり別に領地を与えられている。

◉今日の一句

 

ふるさとの悪しきニュースを受く夜寒

 

◉健康公園のシイ(椎)の実が熟れて自然に落ち始めた。子供の頃さすがにドングリは食べなかったがシイの実は普通に囓(かじ)っていた。




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