10月6日の①に続き、
ここでは陪臣(ばいしん)と云われる比較的禄高の少ない層のことを私の郷里を給領地とした萩藩一門家の厚狭毛利家に仕える諸士を例にして書いておきたい。
陪臣は「またもの」とも云われ、萩毛利宗家に仕える厚狭毛利家(直臣・じきしん)に臣従する形になることから陪臣と呼ばれる。
厚狭毛利家祖は毛利元就八男・元康で同母兄元秋が早世した後、山陰の雄で戦国大名・尼子氏の居城であった月山富田城を預けられたり、朝鮮の役では渡海して功をあげ、毛利家が豊臣氏から所領を認められた中国八か国112万石時代の家臣の禄高が記録されている「八か国時代分限帳」には、小早川隆景、吉川元春、宍戸元続(ししどもとつぐ)に続く4番目の分限、23829石を宛てがわれていた記録が残っている。
慶長5年(1600)関ケ原の敗戦で毛利家が防長二州36万9千余石となった際、元康には10500石が与えられたが、元康の死後幼少の一子・元宣(もとのぶ)の代に行われた馬揃い(軍馬検閲)で、馬の不備を咎められ領地半減の処分を受け、その後寛永2年(1625)の藩内知行一斉改めで厚狭郡他約6000石を与えられ以後幕末迄続く。
江戸時代で最も新しい厚狭毛利家の分限帳は「山陽町史資料編中巻」に収録されている安政2年(1855)5月に改められたもので、これを整理した柳澤京子氏の「長州藩慶応期軍制改革と藩正規軍」に載せられたデータによると、当時の禄高は開作(開拓)などもあり6700石、合わせて230家ほどの家臣で、以下の通りであった。
・家老6家 88~124石
・番頭(ばんがしら)5家 13石~52石
・中臣通(ちゅうしんどおり)26家 10~60石
・中小性(ちゅうこしょうどおり)75家 0.1~36石
・医師20家 無石~22石
・表通55家 無石~14石
・足軽44家 無石~2.4石
・中間4家 無石(出勤に応じた日当制)
通常戦いの場合動員は1万石あたり200人~250人と云われ、毛利家では「100石につき2人」とされる定めがあった。
これ等に比べ6000石超の身代で230家の家臣(陪臣)は多すぎることになるが、元々23829石→10500石→6000石という所領高減少のなかで家臣の整理が不完全で引きずり、家臣個々の禄高減少にしわ寄せされたものと考えられる。
余談ながらこれは現代の企業のリストラでもよくあるパターンである。
具体的な例では、以前このブログに連載した「馬関軍中日記」の記録者・二歩俊祐(にふしゅんすけ)は当時中小性通15石の禄高であったが、彼が明治3年に書いた「覚」によると、
先祖は文禄年間朝鮮征伐の折り、毛利元康公のお供で渡海、帰国のうえ300石を下賜され、それ以来連綿と時勢に応じ奉公仕来たり事、
とあり最高300石の禄高だったのが時勢の変遷により15石まで減少していることになる。
「たそがれ清兵衛」が50石の下級武士だといわれても武家社会にはこれ以下の生活を余儀なくされている多数のものが居たことがわかる。
ただ救いは下級武士の多くは在郷と呼ばれる村社会での生活を許されていて、厚狭毛利家の諸士も萩屋敷勤めの一部を除き在郷がほとんどで、この為畑作りなど副業が可能であった。
更に厳しくなるのが武士の世が終る明治維新でありこの実情に次回少し触れておきたい。
余談ながら、徳川将軍家からみると旗本、御家人(ごけにん)と大名そのものが直臣で、大名の家臣は陪臣であった。
将軍に直接目通り出来る身分が旗本で、出来ないものは御家人と称され当然禄高も少ないが、その分、気位は高く参勤交代で江戸に出た大名家臣を陪臣・「またもの」と呼びさげすんだ。
◉今日の一句
漢水の雫(しずく)昇天天の川
◉施設の庭の片隅のキンカン(金柑)の実、まだまだ青く金色になるには時間がかかる。



たまたま近くで見かけたケイトウ(鶏頭)
