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武家の禄高(石高)あれこれ①

9月20日のこのブログ『映画「たそがれ清兵衛」』で清兵衛の禄高が海坂(うなさか)藩士50石であることを書いたが、これを機会に近世・江戸時代の武士の生活に直結する禄高、石高のことを萩藩(長州藩)やその一門家臣・厚狭毛利家を例にして書いておきたい。

周防国長門国いわゆる防長二州(現在の山口県域)を治めた萩藩毛利家(長州藩)は公称の石高が36万9千余石であった。

(余談ながら作家・藤沢周平さんが小説内で作った海坂藩は7万石の設定である)

これは藩政初期の慶長15年(1610)に完了し、当時の検地奉行の名の付いた「三井・蔵田検地」で算出された二州の総石高53万9千余石をもとに幕府老中と内々相談した結果で、大名の格式、江戸城での席次や幕府からの課役などに直結する数値であり、江戸時代を通じて変わらない表高(公称)であった。

石高とは米の収量であり検地は田畑のみ調べると思われがちだが、実際は耕地面積や地味を調べることはもちろん、屋敷地、山成り川成り(山や川から採れるもの)茶・椿・桑・漆・柑橘・柿等の屋敷地周りの樹木、浦浜の漁獲や塩、町筋(商工業など)の屋敷地なども全て米に換算され石高に入れられ税(年貢)の対象であった。

*米1石=10斗=2.5俵=150kg

当時の税率は四公六民(税率40%)が一般的であったが、関ケ原敗戦で毛利家が中国八ヵ国から防長二ヵ国に減封となった藩政初期には、旧六ヵ国への税の変換、萩城の築城、幕府の課役などが重なり税率73%や50%の時期があり周防国では山代慶長一揆(やましろけいちょういっき)と呼ばれる重税反対の大一揆が勃発、11人の首謀者の庄屋が斬首された。

萩藩領内は蔵入地と給領地に大別される。蔵入地は藩の直轄地で年貢は藩庫に入る。給領地は藩士の知行地でその年貢は給領主の収入になる。

藩諸士は知行地の石高によって身分階級が定まっていてその主なものは以下の通り

・一門 藩主毛利氏の一族、厚狭毛利家を含み六家あり家老職を世襲、初期1万6千~1万石

・永代家老 戦国以来功績のあった益田、福原の両家で家老職を世襲、1万3千~1万石

・寄組(よりぐみ)上士、大組士を統括して一軍を編成する、62家、才能により一代家老等に抜擢される、先にブログに書いた国司信濃はこの例である、1万2千~6千2百石

・大組 馬廻りといわれる藩士の中核、八組に分かれ江戸二組萩六組と交代で在番、1600~40石

・無給通(むきゅうどおり)給領地はなく扶持米が支給された、9人扶持~60石以下

足軽・中間(ちゅうげん)雑用に従う、1人扶持~日当の支給

*扶持米(ふちまい)は1人扶持当たり1石8斗の計算であった。

藩士には中国八か国時代からの譜代が多く藩政初期には各々減封のうえ給領地が与えられた。しかし少ない土地の場合管理経営が難しく、土地を藩に返して扶持米を受けるものが続出して無給通り士多数がうまれた。これに伴い蔵入れ地が増えることになる。

年貢は五公五民から最終的に四公六民に落ち着いたので給禄高100石の藩士の実収入は40石、50石の実収入は20石である。

全く諸条件が違うので単純比較は全く出来ないが、とりあえず目安で計算してみると、

現在の米の小売価格を5kg4000円と仮定して米一石=150kgに当て嵌めると、給禄高50石実収入20石では年収240万円となりこれで家族や使用人を養い、自弁が原則の有事に備えなければならない。

これは藩直属の武士の例だが、藩内武家には陪臣(ばいしん)と称して藩諸士に仕える家臣も多数いた。次回は厚狭毛利家を例にして陪臣の石高などに触れておきたい。

◉今日の一句、去年までのものに比べると今年のサンマは本当に価値がある。

 

太秋刀魚値千金根室

 

◉施設の庭、フヨウ(芙蓉)

◉十四夜 待つ宵の月

 

 

 




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