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惣社(総社・そうじゃ)と厚狭・惣社八幡宮

今、「出雲と大和」という古代出雲勢力と大和との関係を解き明かす岩波新書を読み進めている。

この本の冒頭は岡山県総社市にある総社宮の祭神の変遷から始まっているのだが、元々「惣」も「総」も「全て」という意味があったが、惣は当用漢字表にないので総が多く使われるようになった経緯からみて、ここももとは「惣社」であったと考えられる。

遅くとも九世紀頃、律令制下の各国(例えば出雲国備中国など)の国庁には神祇施設がありさまざまな神事が行われ、毎月一日朝の「朔旦神事」には一国内の神々が「惣座」に迎え入れられた。

この惣座が惣社成立のきっかけと考えられ国庁や府中に存在した神社の実態は惣座=惣社であり国中の多数の祭神を有することになる。

例えば総社宮は元々304座の神々が祭神として祀られていたという。

何れにせよ各国には惣社に相当する神祇施設・神社が存在し、武家社会になっても守護や領主の崇敬と支援を受けた。

また国レベルではなく地域例えば郡内の神社や祭神を集めた惣社も存在するが、何れにしても惣社とは多数の異なった祭神を祭ったものである。

以上が惣社に関する一般論を簡単にまとめたものだが、実は私の故郷・山口県厚狭(現山陽小野田市)郡(こおり)地区には古くから「惣社八幡宮」があり以前からなぜ惣社という名がついているのか疑問であった。

地元の同級生に撮って貰った厚狭惣社八幡宮

惣社八幡宮は社伝などによると源平合戦終結後文治3年(1187)、源頼朝長門国宗廟として鶴岡八幡宮を勧請して惣社八幡宮を建立、厚狭(厚西)郡に勢力を張った箱田氏を大宮司職に補任し社領を与えたとされる。

(実際は箱田氏が勧請建立したと推測される。また別の史料によると箱田氏はアサ(厚狭)氏と名乗っていたとも書かれている)

元々の社地は当時板垣の津といわれた下津(しもづ)にあったが毛利氏の時代一時的に厚狭を領した三沢氏が社地を居館としたため現在地に移った。

問題はなぜ惣社と名付けられたかだが、

調べてみると惣社八幡宮主祭神が、応神天皇八幡神)、その父親とされる仲哀天皇、母親とされる神功皇后、また配祀神宗像三女神となっており、何れも武神としての八幡神にゆかりの神々であり八幡宮の枠を越えるものではない。

箱田氏は八幡宮の勧請・建立を足掛かりとして自分の勢力範囲内の厚狭(厚西)郡内の惣社を目指したのか、あるいは自家の目指すところは長門一国の支配だとして宣言したのか、単に武神としての八幡神に思いを入れこの地域の八幡神の中心としたかったのか想像は膨らむ。

「山陽町史」によれば箱田氏自体は天文年間(1530頃)までは各種史料に厚狭下津の地頭として存続したことがわかっているものの、南北朝争乱や近隣の大内氏の勃興などにより衰運をたどることになる。

惣社八幡宮大内氏時代や毛利氏の時代も社領は減少しているものの庇護を受け、また明治時代の社格は「村社」として現在に至っている。

今回はここまでだが、引き続いて惣社と名付けられ現代まで続いた意味を考えてみたいと思っている。

◉今日の一句

 

放棄田の畦に嘆きの彼岸花

 

◉厚狭図書館の近く、マリーゴールド

 

 

 

 

 




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