③津和野訪問
・やまぐち号は13時07分津和野着で出発が16時12分の約3時間の滞在、津和野城跡にも行く予定だったがあいにく雨模様、山城なのでリフトで途中まで行き更に徒歩で20分程度登る位置に在り、同級生と相談の上今回は断念した。
・森鷗外旧宅と記念館、更には墓碑、今回のいちばんの目的である。
鷗外は津和野藩亀井家4万3千石の藩医の家に生まれ、明治陸軍軍医総監と明治の文豪という二つの人生を生きた。
死に臨み(外形的な取り扱いを辞退して)「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言した。これを受けその墓にはただ森林太郎とだけ刻まれることになった。
尚、石見人とは島根県西部の津和野を含む旧国名・石見国(いわみのくに)に生まれたことを表す。
森鷗外旧宅

初期の履歴書

陸軍時代の結婚許可願い書、宛先が総理大臣・桂太郎で添え書きが陸軍大臣・児玉源太郎、何れも長州人。森鷗外は長州閥の総帥・山縣有朋の知遇を受けたと云われ、これには出身地の近さから来る親近感もあったのではと思われる。
それにしても結婚願いを総理大臣まで上申し、上司の陸軍大臣の添え書きまで貰わなければならないことを鷗外はどう思ったのだろうか?
鷗外は死の床で「馬鹿馬鹿しい」とうわごとを云ったとされ、また遺言で「外形的取り扱いを辞し石見人として死にたい」としたことなどを考えると鷗外の胸中が推し測れるような気がする。

鷗外が口述し親友・賀古鶴所(かこつるど)が記した遺言書。

・鷗外の墓所・永明寺(ようめいじ)遺言通り森林太郎とのみ刻まれている。


・津和野出身の西周(にしあまね)旧居 明治の啓蒙思想家で貴族院議員も勤め「哲学」という言葉を生んだ。ここの蔵で森鷗外が勉学に励んだと云われる。
右手の大きな栗の木が実りを迎えていた。

・日本五大稲荷の一つ太皷谷稲成(たいこだにいなり)神社、この神社のみ稲成と表記され願望成就の意味があるらしい。子供の頃周りの大人が太皷谷稲成へ行ったとよく話していた記憶がある。山口県人にとってもお稲荷さんといえば太皷谷稲成神社になる。



神社から見下ろす津和野の街と津和野川

神社から見る今回行けなかった津和野城跡、悪天候だが目を凝らすと左側頂上付近に黑澤明の映画に出て来そうな中世山城の石垣が見える。

・津和野カトリック教会、明治初期の長崎信者弾圧、津和野への流罪殉教の歴史を伝える。


・森鷗外も学んだ藩校「養老館」と堀割、藩校には学問所と武道館が併設されている。




・有名な弥栄(やさか)神社の神事・鷺舞(さぎまい)の像、元々京八坂神社祇園会に伝えられたものが山口(大内氏)を経て津和野(吉見氏)に伝えられた。

・津和野出身の画家・安野光雅(あんのみつまさ)美術館
独特の画風で郷愁を感じさせる絵画が並ぶ。

いずれの日にか国に帰らん

つい未だ読んでいない安野光雅さんの本を買ってしまった。

◉ひと休みの喫茶店で津和野名物「源氏巻き(こし餡をカステラ生地で巻いた菓子)」をコーヒーと共に頂いた。源氏物語にゆかりの名前らしい。
SLの故障でやきもきしたものの、悪天候のなか同級生のお蔭で上手く短時間の内に主要な箇所を廻ることが出来、とてもよかったと思って感謝している。
◉今日の一句
鷗外の気骨の墓碑や秋津和野