専門外ながら「山口県地方史学会」に入会させて貰っているのでその機関誌最新の第133号が送られて来た。
研究論文や史料紹介など色々掲載されているなかで山口市在住の山崎一郎氏が執筆された研究論文・「幕末長州藩の諸隊力士隊と山分勝五郎」が目に止まった。
先日このブログで書いたように長州藩では文久3年(1863)5月攘夷を実行すべく下関海峡で外国船を砲撃したが、相手の反撃に自藩の無力を悟り高杉晋作を起用、身分制を脱した奇兵隊を組織する。
藩内ではこれに倣い「諸隊」と呼ばれる組織を約400隊誕生させ藩軍の核としていくが、力士隊もそのひとつである。
私が特に「力士隊」の名を記憶しているのは、元治元年(1864)12月15日長州藩政府が保守派(俗論派)に牛耳られている現状を覆そうと、高杉晋作が下関でわずか80名を率いて挙兵した折、当時力士隊を管轄していた伊藤博文(俊輔)が隊士30~40名を率いて参加、後の内戦(太田・絵堂の戦い)を経て藩論統一に繋がった史実による。
余談になるが高杉晋作には詩才もあり色々な言葉が伝わるが、これは下関挙兵の際のものと云われる。
真(まこと)あるなら今月今宵明けて正月誰も来る
(真の心があるなら苦しい今こそ来てくれ、事態が良くなれば誰でも来る)
「真」が「実」や「情」になって知られている場合もあるが、それはそうとして初代総理大臣・伊藤博文にはやはり大なる志と真があったと云えるのではないか。当時山縣有朋が掌握していた奇兵隊や諸隊が挙兵参加に踏み切るのはこの3週間後であった。
力士隊は名前の通り江戸大阪から攘夷実行を知り国許に帰国した元力士を核に、藩内の力士や力自慢を集めて結成された隊で山分勝五郎はその頭取となったものの名前である。
藩主や京からの勅使への上覧相撲や萩・菊ヶ浜土塁工事への参加を経て、本格的に兵士として幕末の戦場ヘの参加が記録されている。
・元治元年(1864)7月禁門の変
・同年12月高杉晋作下関挙兵
・元治2年(1865)1月内戦・大田絵堂の戦い(藩政府保守俗論派側に立って参戦)
・慶応2年(1866)第二次長州征討・四境戦争
山崎氏は論文の「おわりに」の項で以下のように書かれている。
『力士隊は、数多い諸隊の中でも、幕末長州藩の歴史にしっかりと痕跡を残した隊のひとつといえる。彼らは重要な戦力と評価され、禁門の変、元治の内戦、第二次幕長戦争、戊辰戦争と度重なる戦闘の最前線で奮戦した。それゆえ死傷者も少なくない。そもそも勝五郎らは、長州藩の攘夷決行を支持し、郷土防衛の思いから「外夷と一戦に及ぶべしと決心仕り」、力士を止め帰国した。しかし兵士となった以降、戦う相手はいつも日本人であった。どのような思いで戦場に立ち続けたのか』
◉今日の一句
海の水陸(おか)へ還さん雲の峰





「山口県地方史研究133号」
