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「両像・森鷗外」

松本清張著「両像・森鷗外文藝春秋刊を読み終えた。

松本清張が作家活動に専念するきっかけになったのは森鷗外が小倉に師団軍医部長として赴任していた折の日記に題材を得た『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞してからである。

この本は森鷗外にこのような縁がある著者が、生来の探究心の本領を遺憾なく発揮してその作品を読み込むと共に、軍医官僚としての足跡をも徹底追跡し「評伝・森鷗外」としてまとめたものである。

従来からの鷗外研究者の諸説にとらわれることなく松本清張らしい見解が随所に見られ、例えば鷗外の小倉勤務は左遷であったと云う説に対し、陸軍の実状を分析するなかで妥当な順送り人事異動であったことを説明している。

私は長州人なので森鷗外長州閥総帥の山縣有朋乃木希典に親しんだ描写は貴重な知識になった。

表題の「両像」について、本作の文中に解説はないが当然森鷗外が軍医官僚としてその頂点である「軍医総監」まで昇り詰め、文筆家としては「明治の文豪」として多数の文学作品を残したことを表している。

よく知られているように鷗外は死に臨んでの親友を介した遺言で、以下の有名な言葉を遺しその墓にはその意を受け森林太郎墓と刻まれている。

~~余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルゝ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ~~

この「石見人森林太郎として死せんと欲す」以下の文の意味は従来から諸説あるが、著者は資料の読込みと「宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルゝ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス」の字句から以下のごとく説いている。

『鷗外がはじめて死後「文学者」であることを宣言し官吏から訣別した』

🔘今日の一句

7月9日は大正11年(1922)に亡くなった鷗外忌

虚飾脱ぎ素の石見人鷗外忌

 

🔘施設の庭の隅、アガパンサス(ムラサキクンシラン

「両像・森鷗外

 




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