著者は元々文藝春秋の編集長も勤めた編集者で「歴史探偵」を自称し、近代以降特に昭和史を中心に幅広く著述活動を行いマスコミにも度々登場していたが2021年に90歳で亡くなられた。
義祖父が夏目漱石であることから漱石にも傾倒しエピソードを綴った「漱石先生ぞな、もし」と云う著作もある。
また当然のごとく自らも俳句を詠んでいるが、一茶や其角などの俳人の俳句を楽しむエッセイも出版されている。
夏目漱石の松山中学校教師時代の下宿先に親友の正岡子規が転がり込み、これをきっかけにして否応なしに俳句づくりに引き込まれたのは有名な話である。
特に明治28年(1895)~明治32年(1899)の松山から熊本時代に1500句以上を詠んでいる。
この本の「あとがき」を読むとさすがに中身を言い当てているなと思えるのでそのまま使わせて貰うと、この本は明治36年(1903)ロンドン留学から帰国後、東京帝大や第一高等学校で教鞭をとりながら物書きに手をそめ、やがて文豪として崇められ大正5年(1916)亡くなるまで、云わば小説家の余技となった俳句を中心に、漱石その人や作品について考察されたものである。
内容が広範囲で書き出すときりがないので、ここでは正岡子規の作で私の好きな以下の句にまつわることのみ記す。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
・何でも分類する癖のあった子規は友人や門下生を野菜や果物に見立てたがそのなかで漱石は「柿」であり、「ウマミ沢山、マダ渋ノヌケヌノモマジレリ」と説いている。
・また子規はことさら柿が好きで柿の句を沢山詠んでいて漱石の子規に対する以上に子規は漱石に親愛の情を感じていた。
・松山の漱石の下宿に子規が転げ込んで後54日目、子規は病の小康得て東京に帰ることになり漱石は文無しの子規に数十円を貸した。
・子規はその帰り道奈良に寄って恩借の金子はここで全て使い果たしたと漱石に手紙を寄越した。
「子規は奈良で派手にあそび病い悪化の原因になるくらい柿を喰らいそして法隆寺の句詠んだ。柿をがぶりとやっては漱石を思い出し、句をひねっては親友のことを偲んだ」
🔘今日の一句
夕顔と一番星が相呼びて
🔘健康公園のネムノキ(合歓木)の花





「漱石俳句探偵帖」
