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厚狭にゆかりの方々へ・「馬関軍中日記」を読み終えて①

私のふるさと山口県厚狭(あさ・現在山陽小野田市)に伝わる江戸時代末期の記録「馬関軍中日記」を今まで18回に分けてこのブログに書いて来たがようやく読み終えることが出来た。

これを書いたのは江戸時代に厚狭を給領地とした厚狭毛利家の家臣・二歩駿祐(にふしゅんすけ)である。

安政2年(1855)当時の分限帳(ぶげんちょう・身分石高を記載)を見ると厚狭毛利家の士分の序列は、家老、番頭(ばんがしら)、中臣通、中小姓通、表通の順で二歩家は中小姓通、高15石となっており決して高い家格ではないが、厚狭毛利家初代・毛利元康(毛利元就8男)に従い朝鮮出兵にも渡海従軍して以来代々の家臣で厚狭杣尻(そまじり)地区に居住した。

山陽町史資料編等を見ると駿祐は天保3年(1832)生まれ、11歳の時から厚狭毛利家8代房晃の子・宣次郎親民の伽役(とぎやく・話相手)を勤めて以降常に厚狭毛利家の側近に侍し幕末維新の動乱浮沈を乗り切った。

また資料を見るとその間萩藩校・明倫館や厚狭毛利家学館・朝陽館で学んだことが窺える。

彼自身の「覚」を見ると数々の任務を勤めると共に、文筆の才に長じていた駿祐は本来業務の外に書記、記録方など公けの筆録作業に従事し、この「馬関軍中日記」を始めとする記録を広範囲に綴った。

伊藤博文とも親交があり再三の誘いも受けたと伝わるが、中央を志向することなく厚狭で余生を送り大正2年(1913)82歳で逝去したが膨大な公私にわたる「二歩日記」を遺している。

私の手元に江戸時代後期から明治維新にかけての日本史年表いわゆる「幕末史年表」があるがその中、文久3年(1863)5月10日に「長州藩関門海峡通過中の外国艦船を砲撃」と書かれていて、これがこの「馬関軍中日記」の舞台である。

文久2年(1862)11月幕府が朝廷より攘夷の勅を受け、翌年の5月10日を実行期日として奉答公布して以来長州藩(萩藩)は着々と準備を進め、厚狭毛利家9代元教(元美)が文久3年4月馬関海防惣奉行に任ぜられて萩を出立し、後任の嫡子(実際は異母弟)宣次郎が同年6月に厚狭に帰館する迄丁度2ヶ月間の配下一手を含む戦時記録である。

別資料に依ればこの時指揮下の一手人数は士分、軽卒、従者・夫役を入れて657人とされる。(この外に下関を領地とする萩藩の支藩長府藩清末藩の人数が従軍している)

長州の片田舎厚狭が日本史のレベルでその当事者となり表舞台に顔を見せるのはこれが唯一の事柄であり、厚狭にゆかりがある人々に是非知って欲しい思いがある。

この日記の理解を進める為、一般的に教科書等で「下関事件」と称されるこの武力行使事件の前後の経過などを次回整理しておきたい。

少し余談になるがこの「下関事件」を冷静客観的にみた場合どの様な状況になるのか?について非常に面白い辛らつな表現がある。

司馬遼太郎作品に吉田松陰高杉晋作など松下村塾門下生を主人公にした長編「世に棲む日々」があるが、この中で司馬さんはこの事件を以下のように端的に書いている。

「長州は藩をあげて気が狂った。攘夷々々と唱えるうちに、ついにゆきつくところまで行きついたという感がある。このわずか三十六万九千石の藩が世界じゅうを相手に宣戦布告をやってのけたようなものであった。」

まさに吉田松陰の唱えた「狂」の実践そのものであった。

また厚狭毛利家が前面に立った「下関事件」は当然ながら武家のみでなく、当時の厚狭の一般民衆(農民町人)にも多大な影響を与えている。

以前江戸時代の厚狭の民政記録「厚狭毛利家代官所日記」を読んでこのブログにも書いてきたが、2022年2月20日厚狭毛利家代官所日記㉗~2022年7月30日厚狭毛利家代官所日記㊱の記述にこの間の民間への影響(人夫動員、献金etc)のことが触れられている。

🔘今日の一句

 

郷土史国史と成りぬ夏の役(えき)

 

🔘健康公園のヤマモモ(山桃・楊梅)の実がまた今年も熟れて来た。

去年このヤマモモを少しもいで食べて見たが子供の頃食べた記憶の美味しさは残念ながら得られなかった。

 




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