6月12日のブログの続き
文久3年6月16日
・(毛利宣次郎が下関から厚狭へ帰還の為の手配・各宿場への人馬先触れの指示書)人足26人、馬4頭、16日に騎馬で出立される、吉田を通り厚狭へ御帰りになるので滞りなく用意するようにとの触れが途中の宿場宛発出された。この間宿賃の支払いには及ばずと付されている。
・御機嫌良く八つ半時(午後3時頃)下関を騎馬で出立された。(その御供行列の氏名役割が書かれているが、中間や若党等を除いて士分だけでも80名近い堂々たる陣容である)
・途中下関本行寺、長府二ノ宮にて小休止、参詣の記録。
・毛利左京亮様(長府藩主)府中覚苑寺へ立ち退かれていたので若旦那様は同寺へ立ち寄られ相対された。(付けたり)御土産として鰹節一箱を使者を以て御持ちになった。
・長府町本陣にて左京亮様より御馳走夜飯を差し出された。尚御供中へ割籠(わりご・弁当)差し出すので総人数は何人かとの町奉行より尋ねがあり、最早一統は弁当を相済ませたと御断りしたが、覚苑寺参りの人数は未だ相済ませておらず20人前程下されるようにと申し御馳走に相成った。
・井上金吾(厚狭毛利家家老)は兼ねてより左京亮様へ御由緒(ごゆいしょ・所縁)があり御旅館へ罷り出た。
・夜五つ時(8時頃)長府を出立し四つ半時(11時頃)小月(おづき)駅(宿場)到着、宿泊された。
・案内の手子(てこ・下働き)や本陣その他への御礼や心付け支払の記録あり詳細略
6月17日
・今暁7つ半時御供揃いにて小月駅を出立、吉田駅は御休みなしで蓮台寺坂辻で御野立(のだて・野外で休憩)をされた。
・益田豊前殿(萩藩上士)当節吉田駅に滞留されているので御見廻りの使者として粟屋鶉三(厚狭毛利家臣)を差し越した、
・御機嫌よく今四つ半時(夜11時頃)厚狭御館へ入られた。
・御供の総人数の内士分以上を御庭に召し出され御意として「長々の滞陣苦労であり満足に想う」と直々仰せ聞かされた。
・総人数へ朝陽館(ちょうようかん・厚狭毛利家の郷校)にて御酒頂戴を仰せ付けられた。
・御意の御礼、御酒の御礼等を御用所に於いて申し上げ済み、分散貝(解散の法螺貝)にて鯨波(とき・エイエイオーなど)を作り解散を仰せ付けられた。
・御帰陣の式次第は別記に詳細あり略す。
千秋万歳(せんしゅうばんぜい・祝い言葉)
(注)駅とは宿場のこと。
🔘日記の最後に千秋万歳と記されているが2ヶ月に及ぶ異国船との戦いを終えて故郷に帰り着いた万感の思いが込められているような気がする。
ようやく馬関軍中日記を読み終えたが別途まとめを書くつもりです。
🔘今日の一句
腹動く程に進まぬ蝸牛
背負う殻禍福何れや蝸牛
🔘施設の中庭、これもアジサイ(紫陽花)らしい。




🔘通路の写真をメジロ(目白)に入れ換えた。

🔘あの畑にいた子ネズミは翌日早々いなくなっていたらしい。私も確認したがもぬけの殻で親ネズミが避難させたのではないかと思いたい。