6月8日のブログの続き
文久3年(1863)6月12日
・福原相模(ふくばらさがみ・萩藩士)殿山口より差し越され、勅諚(ちょくじょう・天皇の命令)と併せ御書(藩主の書面)を持参され若旦那様が御頂戴された。
(勅諚は長門宰相(萩藩主)宛で大意は以下の通り、尚当時は孝明天皇である)
5月10日夜アメリカ船が長門豊浦郡府中に停泊の処、大砲数発打ち払ったと聞いた。兼ねてより布告した攘夷期限に違わず速やかに実行の段、格別のことである、
いよいよ励み皇国(こうこく・日本)の武威を海外へ輝かせるよう沙汰する。
御書は6月10日付で藩主・毛利慶親から宛名は毛利宣次郎殿となっていて大意は以下の通り
一筆申入れる、御方(毛利宣次郎)領分(厚狭)へ引き取り彼の地の警衛を申し付ける、詳しくは年寄共(家老一同)より伝える。
同一内容の当時の家老職7名連署の書き付けが添付されている。
・前記の御書(指示)を頂いたことを萩へ飛脚を出し御用状を以て申し越した。
6月14日
・陣中の兵糧について書き出し(厚狭毛利家)御用所へ差し出した。
・若旦那様下関出立の御供人数、旦那様御帰萩の御供人数を書き出し同様に御用所へ出した。
・上荷船(うわにぶね・荷物積み降ろし用の小荷船)3艘を荷物積み込みの為差し越すように厚狭へ伝えたが内1艘は今夜中に着岸するとの届けがあった。
・殿様(萩藩主)より御暇乞い(おいとまごい)として御酒1樽4斗、鰹節30を頂戴した。
6月15日
・上荷船2艘今朝着岸の届けがあった。
下関滞陣中に世話になった武家、寺、地方(じかた)、御用商人等へ金品の届けや支払いの記事があるが省略。(その口上として、この後も出陣することもありその節も世話になるとのことが付されている)
6月16日
・今日八つ時(午後3時頃)御供揃いにて御帰邑(きゆう・領地へ帰る)されると仰せ出された、御荷物武器等を取り収め伊崎波戸場迄持たせ船積みにして厚狭へ差し送る。
・同件に付き長府藩陣代・田代音門、清末藩在番・入江亘人、国司信濃(くにししなの・毛利宣次郎の後任)殿其の外懸かりの諸役人へ暇乞いの御使者を差し越された。
・下関出張の役人其の外お暇乞いとして入来され御相対された、
🔘赤間関(下関)海防惣奉行を既に拝命していた厚狭毛利家当主・毛利元教が文久3年(1863)4月15日萩城に召され藩主より軍令を受け攘夷実行の為下関に出張を命じられてから約2ヶ月経過、厚狭毛利家家中や厚狭の領民に多大な辛苦を強いた軍務が終ろうとしている。
🔘今日の二句
吾の軌跡ででむし程に残したき
淡路より茅花流しの駈け来たり
🔘健康公園、雑草だが懐かしい田舎の風景を思い出すチガヤ(茅萱)




