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二歩家文書①馬関軍中日記⑮

5月23日のブログの続き

文久3年(1863)6月5日

・若旦那様(馬関惣奉行・厚狭毛利家世子・毛利宣次郎)昨夕本行寺へ御宿陣になり、檀ノ浦へ御一手の人数を配すると共に、御内輪(厚狭毛利家中)よりも伏兵として十余人を差し出された。夕八つ時(午後2時頃)異船は退船したとの注進があり一手の人数は引き取りを指示し、七つ時(午後4時頃)御帰陣された。

長府藩陣代(じんだい・藩主の代理で軍務を統括)・田代音門が御陣所へ来たり、左京亮様(さきょうのすけ・長府藩主)の意向で、長府方は亀山その他の台場からの砲発は(今後)差し控えることを御達しとして罷り出たことを申し置き引き取った。

6月7日

・萩表へは(報告の為)長尾軍平(厚狭毛利家臣)へ戦の次第を申し含めて差し越された。

・異船数艘が黒井(下関地名)沖へ見えたとの長府方からの注進があった。

6月8日

・萩からの飛脚便で若旦那様の御胸守(むねまもり・首から掛けるお守り)が満願寺より届けられた。

国司信濃殿組の内、残り無く(全員)今日までに下関に出張を完了したとのこと。

・過ぐる5日使役(つかいやく)・山県箴造を以て、山口表へ戦争の次第の他御用の趣を申し含めて差し越したが、今日下関に帰着し届け出た。

・同人が帰着の節、若旦那様御鎧直垂(よろいひたたれ・鎧の下に着用する装束)一領を(藩主公より)拝領された、その御書下は以下の通り

御鎧直垂一領

            毛利宣次郎

この内以来度々の戦争で心配遂げ苦労である、依って思し召しを以て、拝領仰せ付けらる、この後もいよいよ出精駈け引きに努めること

 

🔘5月23日のブログに書いた通り文久3年5月末に藩世子公の下関巡検があり、鎧直垂の拝領はこれを踏まえたものと思われるが、何れにせよ武家にとって特別名誉のことであり、厚狭毛利家当主の先の謹慎処分の不名誉を打ち消す大きな悦びが厚狭毛利家中にあったと思われる。

🔘国司信濃(くにししなの)は厚狭の隣・万倉(まぐら)5600石の領主で萩藩の最上級家臣である寄組(よりぐみ)士である。当時馬廻り組とも云われる大組士の頭を兼ねており、この日記に書かれてある国司信濃組とは全八組あった大組集団の国司信濃を頭とする一組のことで、国司信濃は自家の家臣団と共に配下の大組士も引き連れ下関に出張していたことがわかる。

この後国司信濃は毛利宣次郎の後任として下関海防惣奉行職を引き継ぐことになる。

また同人はその才を認められ後に萩藩家老職に昇進、「禁門の変」では兵を率いて京へ進軍、その後責任を負って切腹する。

この時切腹した家老職は、益田右衛門佐、福原越後国司信濃の3人だが国司信濃以外の2名は永代家老家の当主であり、実力で昇進し家老となったのは国司信濃のみで、余り世間には知られていないが長州の幕末維新史に於ける功労者のひとりである。

🔘今日の一句

 

万緑に負けじと挑む茜空

🔘健康公園のイロハモミジの翼果(よくか)、種子にプロペラが付いていて種子が茶色に熟すとプロペラが風に乗って遠くへ種子を運ぶ。

 

 




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